茶道のせかい 帰化人のことなど:女神の文化とギリシア悲劇のことな

茶道のせかい 帰化人のことなど:女神の文化とギリシア悲劇のことなど


以下の記事に、次のようにある。

「2003/07/10 Thu 23:27 祇園まつりはインターナショナル

 ごずてんのうさんて、知ってはりますか?
 天皇家家系図みてもあらしませんえ。

 祇園祭りのご祭神はほかならぬ牛頭天皇なのであって、今ではスサノウノミコトが牛頭天皇となってるんだそうだ。神話の世界だからおっとりと聞いておくほうがいいのだろう。

 八坂神社によれば、「天照大神の弟のスサノヲノミコト(素戔嗚尊),その妻,クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)が,一説に都に流行る疫病を静めようとインドから牛頭天皇を呼び寄せ、66の鉾を神泉苑に送ったことに始まる。」という。

 そうなるとご祭神はインドにおわしたのだ。牛の頭とどういうカンケイがあるのか、こちらもおっとりと聞いて来たので今もって分からないでいる。 」

牛頭天皇とは、「女神」の文化・社会のシンボルではないだろうか。インドは、牛が聖獣である。そして、牡牛は、「女神」の文化のシンボルである。また、日本古代は、神道は、「女神」の文化・社会を意味すると考えられるのである。だから、私見では、スサノオは、女神の子である。アマテラスの子であり、「日御子」に当たるのではないだろうか。つまり、イシス/オシリスに相当するものとして、アマテラス/スサノオである。もっとも、スサノオは、父権文化・社会の英雄の姿ももっている。
 とまれ、私見では、アマテラス(女神:牡牛)/スサノオ(女神の子)である。
 ここで、想起するのは、ディオニュソスである。どう位置づけるのかである。今思ったのは、アポロとディオニュソスは一体であるということである。つまり、両者はメディア界の極性ではないと思うのである。+エネルギーがアポロであり、−エネルギーがディオニュソスではないかと思うのである。ニーチェの『悲劇の誕生』の世界である。光と闇は、一体であろう。とまれ、アポロとディオニュソスは、女神の双子である。光と闇、+と−の双子である。女神は、根源・イデア界である。 
 この図式をスサノオに当てはめると、スサノオは二重性をもつはずである。そして、確かに二重性をもっている。秩序破壊者としてのスサノオ(−エネルギー、ディオニュソス)であり、秩序構築者としてのスサノオ(+エネルギー、八岐大蛇の征服者)である。これで、いちおう、牛頭天王の問題をいくらか解明したとしよう。
 次に、《「花街・祇園は江戸中期に門前の水茶屋から発展したもの。」ともいう。 》とあるが、花街・祇園とは、また、女神を想起する。そう、祇園祭とは、正に、東アジアの女神文化・社会を象徴表現しているのではないか。
 さて、以上から考えると、女神は、双子をもつだろう。そして、父権文化・社会の始まりには、双子や兄弟の神話が多いが、それは、女神文化・社会の裏返しなのだろう。『ギルガメシュ叙事詩』のギルガメシュとエンキドゥーの一種双子・兄弟性。そして、聖書のカインのアベル殺し。ローマ神話ロムルスとレムスの兄弟。海幸・山幸。
 さて、このように考えてきて、ギリシア悲劇のことを思うのである。+エネルギー(アポロ)は、父権制となり、−エネルギー(ディオニュソス)は、脱父権制となる。これは、現象界とメディア界のことと言ってもいいだろう。現象界とメディア界の争闘である。思うに、父権的現象界の傲りに対するメディア界側の批判がギリシア悲劇の叡知なのではないだろうか。デルフォイアポロン神殿の神託やバッカスの反逆は、そのことを意味しているのではないか。メディア界とは、いわば、バランス界である。このバランスを現象界は崩しているのである。しかし、私の直観は、さらに、イデア界への志向を感じるのである。そう、エウリピデスの『バッカスの信女たち』におけるバッカスディオニュソス)の支配者に対する復讐であるが、それは、ちょうど現代ポスト近代期に通じる動きがあると思うのである。つまり、現象界的父権制に対する、バッカス(−エネルギー)のエネルギーの発動である。そして、それは、父権制を解体するのである。その脱構築とは、当然、イデア界を志向していると言えるだろう。歴史を見ると、エウリピデスが、紀元前5世紀の作家で、プラトンが、ほぼ紀元前4世紀の哲学者である。古代ギリシア社会は、父権制が腐敗して、−エネルギーが発動して、イデア界を志向していたのではないか。そして、そこに、大哲学者プラトンが出現したということではないだろうか。結局、ギリシア悲劇とは、現象界中心主義に対するメディア界のバランス志向であり、またさらに、イデア界を志向していたということになるだろう。
 とまれ、今は粗雑なまま書き記すに留める。

参考:ギリシア文化
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kodai/23-greece5.html
デルフォイの神託
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/0401/delphoi.html?PHPSESSID=6fb63c89bc928139b35caccb857371f4
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茶道のせかい 帰化人のことなど 2006/03/19
 京都の歴史には帰化人は切っても切れない関係がある。祗園祭りで有名な八坂神社の「八坂氏」、上賀茂神社の「賀茂氏」、太秦地区の「秦氏」など、すべて文化を伝播した豪族であり、「帰化人」なのであった。松尾神社伏見稲荷神社も秦氏の奉祀した神社である。

 桂川の大堰を築堤したり都城の造営等、また絹織物の技に秀でていた彼らが京の都に大きく貢献したことははかり知れない。

 3年前になるが、祗園まつりの茶会にでかけた私は、「八坂氏」が高麗の人だったことをあらためて知り驚いたことがあった。その日のことをノートブックに書いている。
・・・
http://www.janjan.jp/column/0603/0603181018/1.php?PHPSESSID=3b87cdc570afdf8888810891767fe781
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祇園祭
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長刀鉾
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長刀鉾

祇園祭は日本各地の祇園社と呼ばれる神社 に対して行われる祭り である。代表的なものは京都 の綾戸国中神社 と八坂神社 が合同で行う祭りで、京都三大祭り(他は上賀茂神社下鴨神社葵祭平安神宮時代祭 )の一つである。日本三大祭りの一つとされることも多い。7月を通じて行われる長い祭りである。とくに山鉾巡行宵山が有名。宵山には屏風祭の異名がある。

一説には、869年 、疫病の猖獗を鎮める祈願を込めて、卜部日良麿が66本の矛で牛頭天王に御霊会を行ったのがその起源であるという。970年 から毎年行うようになった。その後、応仁の乱第二次世界大戦 などでの中断はあるものの、現在も続いており、千年を超える歴史がある。かつては祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)とよばれていた。その略で、現在でも祇園会と呼ぶこともある。
ちなみに諺で「後の祭り」というものがあるが、これは祇園祭の大一番である山鉾巡行が終わり、この後の祇園祭がたいしてメインとなるものがないことからこの諺が言われるようになったとされる。
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スケジュール

* 7月1日 - 吉符入(きっぷいり)。祭りの始まり。
* 7月2日 - くじ取り式。山鉾巡行の順番を決めるもの。室町時代から競争を避けるために行われるようになった。ただし、さきの巡行の先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、 21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目(さきの巡行の最後)船鉾、あとの巡行の先頭の北観音山、次の橋弁慶山、あとの巡行の最後の南観音山は「くじ取らず」と呼ばれ、順序が予め決まっている。京都市役所 の市会 議場で行われる。
* 7月10日 神輿洗い
* 7月10日から13日まで -山建て鉾建て。分解収納されていた山・鉾を組み上げ、懸装を施す。
* 7月14日 - 宵々々山
* 7月15日 - 宵々山
* 7月16日 - 宵山
* 7月17日 - 山鉾巡行祇園祭のハイライト。山鉾からは祇園囃子のコンチキチンという独特の節回しが聞かれる。現在のような囃子ができたのは江戸時代から。また豪奢な山鉾の飾りも見どころの一つ。かつては山鉾巡行自体が17日(前祭・さきのまつり)と24日(後祭・あとのまつり)の2度行われていたが、1966年より 17日に統合された。鉾の数は現在は32基で、これも時代によって変化している。山鉾は午前9時に四条烏丸を出発し、午前中にコースを回る。見所の一つは辻回しと呼ばれる鉾の交差点での方向転換である。鉾の車輪は構造上方向転換が苦手であるため路面に青竹を敷き水をかけ滑らして向きを90度変える。
* 7月17日 - 神輿渡御。山鉾巡行で浄められた御旅所へ、八坂神社から神輿が渡る神事。この夜から7日間滞在する。誰とも言葉を交わすことなく七夜お参りすれば、願いが叶うというのが「無言参り」。
* 7月24日 - 花傘巡行。上述の後祭の変化したもの
* 7月28日 - 神輿洗い
* 7月30日 - 夏越祭(なごしまつり)。祭りの終わり。

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山鉾一覧
蟷螂山(屋根上のカマキリが動く)
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蟷螂山(屋根上のカマキリが動く)

* 鉾
o 長刀鉾
o 函谷鉾
o 鶏鉾
o 月鉾
o 船鉾
o 綾傘鉾
o 四条傘鉾
o 菊水鉾
o 放下鉾
* 山
o 岩戸山
o 保昌山
o 郭巨山
o 伯牙山
o 芦刈山
o 油天神山
o 木賊
o 太子山
o 白楽天
o 孟宗山
o 占出山
o 山伏山
o 霰天神山
o 蟷螂山
o 北観音山
o 南観音山
o 橋弁慶山
o 鯉山
o 浄妙山
o 黒主山
o 役行者
o 鈴鹿
o 八幡山

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%A5%AD " より作成

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デルポイ
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世界遺産 デルフィの古代遺跡
(ギリシャ )
競技場跡
競技場跡
(英名) Archaeological Site of Delphi
(仏名) Site archéologique de Delphes
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(i),(ii),(iii),(iv),(vi)
登録年 1987年
拡張年
備考
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
デルポイの位置
世界遺産テンプレートを使用しています

デルポイギリシア語 :Δελφοι、デルフォイとも)はギリシア本土、パルナッソス山 のふもとにあった古代ギリシア都市国家 (ポリス )である。現在は遺跡 となっており、ユネスコ世界遺産 (文化遺産)に登録されている。


デルポイの遺跡は、アポロン 神殿 を中心とする神域と、都市遺構からなる。神域に隣接して、有力な各諸都市の財産庫も築かれていた。 古代ギリシアにおいてデルポイは世界のへそ (中心)と信じられ、ギリシア最古の神託所であるボイポス・アポロンの神殿の神託 で有名であった。デルポイの神託はすでにギリシア神話 の中にも登場し、人々の運命を左右する役割を演じる。デルポイの神託が登場する神話には、オイディプス 伝説がある。

神がかりになったデルポイの巫女 によって、謎めいた詩の形で告げられるその託宣は、神意として古代ギリシアの人々に尊重され、ポリスの政策決定にも影響を与えた。また時には賄賂を使って、デルポイの神託を左右する一種の情報戦もあったといわれる。デルポイに献納する便のために、ギリシアの各都市はデルポイに財産庫を築いた。これは一種の大使館の役割を果たしたとも考えられる。

史実において有名なデルポイの神託には、ヘロドトス の『歴史』が伝えるアテナイへの二つの神託がある。ペルシア戦争 時にアテナイは初め滅亡を暗示する神託を得たのち、再び使者を立て、以下の神託を得た。

されどアイギス 保つゼウス の御娘 は、
木の壁のみを守りとてアカイア人 に与え給う。 ヘロドトス『歴史』

これをアテナイ市街を焼き払って当時は木造の壁に守られていたアクロポリスに籠城すると解釈するものがあったが、テミストクレス は「木の壁」を船を指すものと解釈し、三段櫂船 を造らせて、サラミスの海戦 にペルシア軍を破った。

またソクラテス の友人はデルポイで「ソクラテスより賢い人間はいない」という神託を得て、その哲学 的探求を促した。この神託に疑問を持ったソクラテスは当時知者とされた人々を訪ねてまわり、結果として、真の知者はおらず、ただ「知っていると思っている」人ばかりがいることを見出し、「知らないと思っている」点でのみ、わずかに自らがそれらの人々より賢いと思うに到った、と、プラトン の『ソクラテスの弁明 』他の古代の証言は伝えている。

その後ギリシアの政治的地位の低下と伝統的宗教の衰微とともに、キリスト教 を待たず、古代末期にはすでにデルポイの神託はかつての地位を失った。プルタルコス は、デルポイの神託について、その衰微を中心として数篇の著作を残している。
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交通

アテネより高速バス
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世界遺産

この世界遺産は、文化遺産世界遺産登録基準 における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

* (i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。

* (ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

* (iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。

* (iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。

* (vi) 顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの。

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関連項目

* 世界遺産の一覧
* Delphi

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