発語の志向性の問題;他者の志向性を否定する自我同一性構造暴力

発語の志向性の問題;他者の志向性を否定する自我同一性構造暴力


ある発語で、特異性の対象を志向したとする。それを、Pとしよう。発語者をSとしよう。即ち、S→Pである。そして、Pに関して、Qという判断を与えたとする。即ち、PはQである。P=Qである。しかし、これは、断定ではなくて、疑問文で提出されたのである。P=Q?つまり、P→Q?である。この発語の前提は、Pという特異な対象である。
 それに対して、別の話者は、最初の発語者はPをメディアを介して見たからQであると断定した。即ち、P→M(メディア)→Qであるとしたのである。しかし、最初の発語者の志向した意味内容は、メディアを通して見て、判断した、特異な対象Pは、Qではないのかという疑問である。つまり、メディアを介したという事を前提として、特異な対象PはQではないかという疑問を提起したのである。だから、別の話者が、メディアを介したから、PはQであると下した断定は、最初の話者の意を無視した暴言であることがわかるのである。前提条件を無視して、最初の発語者に、答えているのである。つまり、最初の発語者の言葉の論理を無視して、反論しているのである。これは、暴力である。ロゴスを無視する、非合理主義者である。これは、一種の狂気である。irrationalである。非理性的である。ただ、最初の発語者の言葉を否定したいという欲望(反感)のために、物の話者は発言しているのである。この暴力的欲望は、先の考察からは、同一性構造欲望であると言えるだろう。他者の差異を否定して、他者に、別の話者の発語の同一性を押しつける、強制するものである。 
 思うに、別の話者は、とりわけ、最初の発語者に対して、自我同一性暴力を発動させるのであるが、これは、どういうことであろうか。それは、一言で言えば、嫉みがあるのである。ルサンチマンである。では、この嫉みの力学構造はどういうものか。ただ、自我同一性構造欲望暴力では説明はできない。同一性構造欲望暴力の対象となるには、その対象にある特質・性質があるはずである。それは何か。ルネ・ジラールは、ライバルへの模倣欲望を説いていた。では、ライバルとは何かとなるだろう。
 しかし、この問題に関しては、先に差異の排除・排斥・隠蔽の問題として扱った。同一性構造自我は、差異を抑圧・排除しているのである。それは、他者の差異であり、自我の差異である。この同一性構造自我は、二項対立的に、差異に対して、優越するのである。ちょうど、ヤハウェが、異教に対して、自己優越するように。即ち、優越項は、同一性自我であり、劣等項は、差異である。差異を同一性化することが、差異を暴力的に否定うすることが同一性構造自我の欲望なのである。だから、同一性構造自我は、自己優越のために、もっとも差異をもつ他者を否定するになるのである。差異を否定すること、ただただ、暴力的に否定することが、同一性構造自我にとり、意味があるのである。それは、シェイクスピアで言えば、イアーゴが、オセロを憎悪するように。凡庸なイアーゴは、高貴なオセロを否定することに、満足を感じるのである。そう、これは、アメリカ合衆国が、オリエンタリズム的に、差異である他文明(アジア文明やイスラム文明を憎むようにである(この場合は、ユダヤキリスト教的同一性構造欲望・暴力による)。
 では、差異とは何であるのか。それは、同一性構造システムに属さない他者であることである。自我同一性欲望・暴力システムに属さない他者性があるということである。それは、どういう徴をもっているのか。どういう差異の徴をもっているのか。それは、同一性自我欲望を否定する質的エネルギーをもっていることだろう。つまり、差異的エネルギーをもっているということである。それは、同一性自我欲望(同一性欲望自我)の二項対立の排除的反動エネルギーを「脱構築」・解体する質をもっているということだと思う。つまり、同一性構造自我が抑圧・排斥している「境界」、覆い・蓋の束縛を解除する質をもっているのだと思う。差異的心身性を抑圧している反動暴力を否定する質、つまり、差異的心身性のエネルギーをもっているのだと思う。この差異的心身エネルギーが、同一性構造自我の被抑圧された心身に作用して、同一性構造自我の同一性を揺さぶるのである。つまり、差異的心身エネルギーで、自我同一性を脅かすのである。これが、差異の徴だと思う。差異心身エネルギー、これを、同一性構造欲望暴力自我は恐れて、否定・抑圧・排除せんと暴力衝動に駆られると言えるだろう。そして、この差異心身エネルギーとは、同時に、特異性のエネルギーであり、イデア界の共立志向エネルギーでもあるのだ。そう、同一性構造自我は、メディア界差異エネルギーだけでなく、イデア界的差異共立志向を恐れるのである。
 イデア界の共立志向エネルギーと言ったが、エネルギーでいいのだろうか。特異性、不連続的差異は、エネルギーになるのだろうか。メディア界は連続的差異の共感・共鳴・共振波動エネルギーである。これは、思うに、それほど恐れないだろう。しかし、イデア界的不連続的差異、絶対的差異の直立共立的《力》こそ、いちばん恐れるだろう。この《力》とはエネルギーなのか。不連続的差異のエネルギー? 絶対的差異共立の波動?
差異共立とは、超光的である。それは、無限的である。そう、連続・同一性である現象をすべて解体するものである。絶対的脱構築性があるはずである。絶対的根源の差異の直立である。現象界の同一性はすべて破砕するのである。絶対的死のエネルギーではないだろうか。というか、原エネルギーではないか。最初の1/4回転においてゼロ化が生起するが、そのゼロ化におけるイデア界の《力》である。そう、i力、虚力である。思うに、i力、虚力を発するのだと思う。これをもっとも恐れるのだ、同一性構造自我は。これは、絶対的脱構築・解体性である。仏教の空無に通じよう。色即是空、空即是色の空というより、絶対無である。根源的不連続性である。根源的バラバラ性である。根源的不連続的差異の共立性である。それは、至上の美の世界である。素数の共立のような世界であろう。根源的に異質、不調和なものが、共立調和している世界である。ゼロ化ではなくて、i力の世界である。iが共通で、その他、共通するものはない不連続的差異の直立共立する世界である。まったき脱同一性の世界である。まったき脱現象の世界である。超空であろう。そう、死の世界である、《あの世》の世界、彼岸である。また、超生の世界である。浄土・涅槃の世界である。イデア界である。これを同一性構造自我は恐れるのである。
 そう、現代は、永遠回帰のエポックである。再び、大創造時代となったのだ。根元のイデア界・浄土・天国・彼岸の風が訪れる時代となったのだ。マレビトの時代である。常世の時代である。偉大な彼岸の虚力が発動する時代となったのだ。占星術で言う水瓶座の時代なのだろう。水瓶の水が、イデア界の虚力であろう。