ポストモダン理論とソーカル事件:ポストモダニズムと近代主義の衝突

ポストモダン理論とソーカル事件ポストモダニズム近代主義の衝突:モダンからパラ・モダンへ


ソーカル事件は、今や、忘失されているというか、日本では、あまり問題にならずに、忘却されたようだ。
 私は、社会的問題になっているときは、距離を置きたいと思い、関知するのを避けた。しかし、今や、「昔」の事件になったので、冷静に考えられるのである。かつては、本をちらと見て、感情的反発だと思ったものだ。しかし、今や、この問題が、重要な意義をもっていることがわかった。これは、近代主義とポスト近代主義との明確な闘争であるのである。近代主義とポスト近代主義とは、二律背反である。あれか、これかの、二者択一しかありえない問題なのである。
 今、ポストモダニズムは、一時の流行として、忘却されているが、しかし、これは、知的革新なのである。ポスト構造主義の不備、そして、日本におけるポストモダニストたちの不首尾によって、ポスト・モダニズムは、敗退した状態にあるのである。それに対して、不連続的差異論やヌース理論は、ポスト・モダニズムを徹底させているのである。つまり、ポスト・モダニズムとは、換言すると、近代的合理主義、近代的二元論的科学主義に対する現代的プラトニズムの絶対的闘争なのである。(ポストモダンという語が、言い古された感じがあるので、パラ・モダンないしパラモダンという語を造語したい。)
 モダンかパラモダンかである。つまり、モダンは、パラモダンを絶対的に否定するし、パラモダンもモダンを絶対的に否定するのである。しかし、問題は、パラモダンはモダンを高次に包摂しているが、モダンはパラモダンを包摂しえないことである。これは、相対性理論が、ニュートンガリレオ力学を包摂できることと類似的である。
 結局、モダンは、パラモダンを魔女狩り的に排除・隠滅しようとするのである。これが、ソーカル事件の意味ではないかと考えられるのである。モダンからパラモダン、近代からパラ近代への移行とは、実際、知的革新、知的革命・「進化」の以外のなにものでもない。これは、哲学、物理学、数学、神秘学、芸術等で準備されてきたものであり、不連続的差異論やヌース理論は、この知的跳躍の徹底である。近代主義の崖っぷちから、思い切って、宇宙・コスモスへと命懸けで跳躍することである。
 結局、私が執拗に偏執的に批判してきた近代的狂気とは、パラモダン、パラモダニズム、パラ近代に対する反動なのである。これは、今や、反動的狂気であり、自己中心的に、破壊的になっているのである。大澤真幸氏のアイロニカルな没入も、これに関係するのである。同一性構造の帰結である近代主義、同一性構造をもつユダヤキリスト教の帰結である西洋近代主義を、超克しないと、人類には、未来はないのである。パラモダン「大進化」である。PARAMODERN R-EVOLUTION!!! ここにしか、未来はない。


Without paramodern sophia, modern evil regime will ruin us all.
Overcome evil materialistic modernity and we will have paramodern new eden.
Since all modernity has become most evil and devilish,
Time has come for us to break up this darkest hell of modernity.
Let us destroy the craziest ancien regime of modern japan and the westernized world.
Great Cosmos of Supreme Idea is Emergent Inside Us to Create New Heaven and New Earth!!!


なにとぞ、近代的旧体制を破砕せよ!
創造せよ! 不連続的差異の共立するパラモダン世界を!
近代の破壊とパラモダンの創造、これあるのみである!