同一性自我によって否定された差異は、どういう《作用》をもたらすの

同一性自我によって否定された差異は、どういう《作用》をもたらすのか


差異とは、人間においては、心身と直観される。いわゆる《心》とは、心身であろう。チャクラ的身体であろう。不連続的差異論では、メディア界に当たる。問題は、近代的自我は、差異を否定したところに成立していることであり、この否定された差異はどういう影響を心身にもたらすのかということである。
 現代は、正しく、ポスト近代の時代と言えるが、近代的自我のままの人が多い。ポスト近代の時代にあって、近代的自我のままであるというのは、反動であると言うしかないが、自我の変容努力を、怠った人たちである。近代的自我の傲りでもある。とまれ、直観では、否定された差異は、近代的自我の心身に悪影響を与えていると考えられる。同一性自我と言ったが、正しくは、弁証法的自我であろう。差異を否定するということを問題にするので、今は、どちらでもいいだろう。
 メディア界において、差異は、対極性の関係をもって、共振している。差異の共感性が発生していると言えるだろう。いわゆる、神秘的感覚やコスモス的感覚(感性)は、ここから発生すると言えるだろう。このメディア界の心身感覚を近代的合理主義は否定し、排除しているのである。即ち、メディア界と現象界の関係は、否定・排除であるということである。二項対立的同一性がここにあるのである。これは、イデア界における不連続的差異の1/4回転の最終的帰結と言えるだろう。つまり、第1の1/4回転である。しかし、第2の1/4回転が起こるので、それは、消滅されるのである。しかし、以前にも述べたが、同一性形式である言語形式の強固さのため、消滅に抵抗して、反動化すると考えられるのである。
 だから、差異の否定の作用というテーマであるが、それは、反動化に関係すると言えるだろう。簡単に言えば、差異と同一性との生成消滅反復が本来あるのであるが、同一性形式のために、差異に対して反動化して、差異を否定するのである。差異の共立・共感性を否定してしまうのである。
 差異が共振するメディア界であるが、それは、差異の動態・エネルギー化(エネルゲイア・強度化:量子力学の世界)であり、心身を賦活させるものである。同一性主義により、差異を否定・排除すると、エネルギーが滞るのであり、平俗に言えば、溜まるのである。エネルギーの渋滞とも言えるだろう。この発露こそ、本来の自由であろう。ただし、素朴なメディア界は、同一性自我と結びついているので、自由が、利己主義、自己中心主義に変じるのであるし、また、全体主義ファシズムに通じるものとなるのであるから、メディア界の扱いは、最高度に慎重さを要するのである。思うに、根本的智慧・叡智が、秘教、密教等と呼ばれたのは、一つは、この危険性をともなうからだろう。大澤真幸氏の説くアイロニカルな没入とは、素朴なメディア界の事象を指していると言えるだろう。ポスト近代という時代は、差異の肯定の時代であるが、反動と全体主義の危険を、同時に、もつのである。
 本件であるが、差異に対する反動としての近代的自我であるが、それは、上記したように、差異共感性や差異エネルギーを抑圧するので、狂気・狂暴性・凶暴性等を帯びると言えるだろう。これは、言語同一性と関係するので、今日、とりわけ、近代的知識人が、狂気化しているのである。メディア界を認めないのである。文学や芸術の衰退とは、このことに関係しているだろう。
 差異を肯定することは、同一性自我にとり、最高度に難しいことである。自我の多層化を構築しないといけないのであり、それは、自我の心身化を意味するのである。身体論が流行したが、それは、これと関係するだろう。即ち、差異の肯定とは、自我の多元・多層的心身化である。(文学や芸術で言うと、これは、モダニズムの時期に生起した事象である。文学・芸術のモダニズムとは、実は、ポスト近代主義なのである。用語の混乱があると言える。だから、「モダニズム」としなくてはならない。そして、この「モダニズム」を、現代は、うまく、継承していないことに文学・芸術の衰退があると言えよう。)そして、多元・多層的心身化を真に実現するには、これまでのポスト・モダン理論では、不十分であったのである。【ニーチェ哲学は、ポスト・モダン理論の偉大な点火であったし、フッサール哲学は、それの偉大な深化であった。しかし、その後、ポスト・モダン理論は、混迷化したのであり、差異の肯定を十全に理論化できなかったのである。もっとも、ドゥルーズ哲学は、後一歩のところで、それを逃してしまったのである。そして、不連続的差異論が発見されて、差異の肯定が十全に理論化されたのである。そして、ポスト・モダン理論がここで完成されたと言えるだろう。(これを、ポスト・ポスト・モダン理論、パラモダン理論等と呼ぶこともできるだろう。)】そこへ、不連続的差異論が発見されて、差異の肯定への確実な、健全な視点が生まれたのである。絶対的ポスト・モダン理論である。近代主義からは、完全に断ち切れたのである。今や、完全に新しいエポックである。東西文明と文理科学の統一である。
 とまれ、この新時代において、反動狂気と全体主義暴力が、発生するのである。二つの巨悪である。しかし、同一性自我による反動狂気は、活動力が衰退して、病み衰えると言えよう。そして、全体主義暴力(例えば、共謀罪法案)であるが、これも、反動であるが、これは、自由な個の活動を完全に阻害するもので、社会は、確実に、衰退するのである。亡国となるのである。


p.s. 全体主義暴力であるが、これは、基本的には、近代的自我、近代主義の反動であり、反動狂気に含めることができるだろう。反動狂気・暴力と呼ぶことが、包括的である。即ち、ポスト・モダン・エポックにおける近代主義の反動狂気・暴力である。