メディア界の事象の意味:視覚的イデアから多感覚的イデアへ

《メディア界の事象の意味:視覚的イデアから多感覚的イデアへ:光闇共立多様体とポスト・モダン革命》


先に、私は、メディア界において、差異が共振して、その結果、光が生まれると述べた。丁寧にみよう。差異1☯差異2が、メディア界であり、この☯の対極的共振において、光が発生するのである。しかし、私は、差異1/差異2(イデア界)において、差異1→差異2の志向性があり、差異1→がノエシスであり、差異1→/がノエマと言えよう。前者は、知であり、後者は、存在である。そして、これが、メディア界においては、極性共振のため、差異が量子=波粒子wavicleになるのである。そして、ノエシス・知は、知覚・認識性へ、ノエマ・存在は、感覚・質料性へとなるのではないだろうか。否、より正確に考察しよう。ノエマ・存在が、他者の差異に接して、共振して、量子性=波粒子性の属性をもつと言えよう。しかしながら、単に、ノエマ・存在→量子・素粒子を見るだけならば、唯物論である。ノエシス・知がそこには内包されているのである。ノエシス・知即ノエマ・存在であるから、量子・素粒子には、「知性」があるのである。とりあえず、共振差異(メディア差異)を光・光子とすれば、光には、「知性」があるのである。つまり、無数の共振差異は、いわば、光知(光智)をもっているのである。光知即光子である。そして、光子は、感覚・質料性を帯びていると言えよう。即ち、光知(知性)即光子(感覚・質料性)である。そして、私が先に、ウグイスの囀りの聴覚について述べたこと事象、即ち、主客未分化事象とは、この光知即光子のメディア事象と言えるだろう。ただし、この場合は、光子は、聴覚・質料性になっているのである。平明に言えば、認識即感覚(質料)、心即身体、思惟即存在である。これは、正確に言えば、即非であろう。だから、認識即非感覚(質料)、心即非身体、思惟即非存在である。これが、メディア界の差異、共振差異の事象である。そして、ここは、単に、視覚に関係するだけでなく、諸認識即諸感覚が、おそらく、共立しているのである。ニーチェディオニュソスとは、この、いわば、渾然一体性を指すのではないだろうか。思うに、共振の度合い、周波数があるのであり、それが、諸感覚を生むのだろう。例えば、ナマズや他の動物には、人間にはない感覚をもっている。人間に感知できない電磁波を受容するのである。また、共振の周波数が低いと、触覚のようなものとなり、未分化性がより強くなるだろう。聴覚は、視覚と触覚の中間に当たるだろう。【ODA ウォッチャーズ氏が述べたことをここで、想起すべきである。
「人間の存在認識の多様性と(不連続的差異論上の)メデイア界について」『不連続的差異論研究』
http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=223622
とまれ、メディア界は、諸認識即非諸感覚の「多様体」である。カオスモスディオニュソス、「一円混沌」(二宮尊徳)とも呼べよう。半田広宣氏が述べたように、プラトンのコーラ、西田哲学の場所に当たるだろう。『老子』の玄牝もここを指すだろう。また、D.H.ロレンスの黒い太陽dark sun、知られざる神unknown God、そして、コスモスcosmosもここを指しているのではないだろうか。そう、メディア界を宇宙は、太陽というよりは、黒い太陽であろう。黒い宇宙だろう。おそらく、ダークマターダークエネルギーの領域だろう。ここが、同一性構造によって、諸認識(思惟・観念・心)と諸感覚(延長・質料・身体)が分化して、現象化して、白い太陽となるのである。(ここでは、これまで、イデア界と考えたものを、メディア界と変更したのである。自説の変更である。後で整理したい。)
 では、現象界に存する白い太陽は、メディア界においては何であるのだろうか。また、現象界の白い太陽とは何であろうか。現象界の白い太陽とは、同一性が視覚差異(メディア界の視覚差異)を分化したときに発生するものではないだろうか。つまり、メディア界においては、光知即非光子であり、この光・視覚のメディア差異が、同一性によって、分化して、白い太陽と視覚(眼)が生まれるのではないだろうか。つまり、白い太陽とは、元は、メディア界の光知即非光子である。原視覚・太陽である。
 おそらく、この原視覚・太陽(以下、原太陽)は、メディア界においては、主要なものであろう。しかしながら、メディア界には、他の諸感覚・「惑星?」があるだろう。これが、現象界の視覚以外の諸感覚を分化形成すると言えよう。メディア界をコスモス(又は、メディア・コスモス)とすれば、白い太陽とは、コスモスの光知即非光子の分化発現である。そして、光知即非光子とは、原太陽である。それを黒い太陽と呼べるかもしれない。しかし、コスモスには、諸惑星があるのであり、それは、原惑星であり、黒い惑星である。視覚以外の諸感覚を内包していると言えよう。
 ここで、思うのは、プラトンの白い馬と黒い馬である。前者が、善であり、後者が悪である。また、前者は太陽・精神で、後者が惑星・感覚(身体)であろう。白い馬を原太陽、黒い馬を原惑星と考えることができるのである。また、有名な洞窟の比喩における太陽であるが、それも、原太陽と考えられよう。しかし、それ以外の、原惑星が、洞窟の外にあるはずである。思うに、プラトンはこれを、排除しているのである。思うに、コーラであるが、コーラは、この排除されたメディア界を指しているのではないだろうか。原太陽から排除したものを、後で、プラトンは、こっそり、いわば、密輸しているのではないだろうか。正しくは、原太陽を含めたコーラであるメディア・コスモスがあるのではないのか。そして、これが、神話的には、太母、原母に当たるのではないのか。プラトンは、光知即非光子を中心化して、他を排除して、イデア論を立てているのではないだろうか。簡単に言えば、メディア界の、いわば、「闇知」即非「闇子」を排除・隠蔽しているように思えるのである。これは、視覚以外の諸感覚を指しているのである。身体である。だから、プラトンイデア論は、イデア(視覚)とコーラ(他の諸感覚・身体)との分離・分化の上に成立しているように考えられるのである。この分離は、同一性構造から発していると思われるのである。プラトンの時代は、父権制の時代であり、父権的同一性構造が、メディア界に作用して、そのように視覚と他の諸感覚を分化させたように考えられるのである。私は以前に思ったのであるが、プラトン哲学は、父権主義から母権主義を見ているのである。前者の視点で、後者を理解しようとしているのである。そこに、プラトン哲学の一種の折衷性があると思うのである。
 さて、このように考えると、D.H.ロレンスの述べた黒い太陽、知られざる神、暗い神dark Godの意味がより明快になるように思うのである。それは、メディア界総体のコスモスを指しているように思うのである。それは、プラトンの視覚中心のイデア論よりは、包括的である。ロレンスは、メディア界の共振差異のコスモス全体を志向していると言えよう。それは、プラトン哲学の超克と言えるだろう。そして、不連続的差異論に、このことを、適用すると、ノエシス即非ノエマとは、単に概念的知性だけでなくて、いわば、感覚的知性を含むだろう。即ち、多元多様的ノエシス即非ノエマイデア界且つメディア界ということになるだろう。不連続的差異・イデアは、多元・多層・多重的イデアとなるだろう。一つ一つの不連続的差異・イデアが、いわば、特異性の宇宙・コスモスということになるだろう。

p.s. 以上の考察から、太母・原母は、メディア界ということになった。多神教も、メディア界に存するだろう。ここで、神話的に考察すると、イシスとオシリスはどういうことになるだろう。オシリスは、光智即非光子である。イシスは、闇智即非闇子ではないか。つまり、オシリスが、思惟・観念・心ならば、イシスは、存在・質料・身体である。そして、両者で、不可分一体のコスモス、メディア・コスモスを形成しているのではないだろうか。そして、イシス☯オシリスの総体が、太母・原母ということになるだろう。
 では、イデア界は、神話的には、どう表現されるのだろうか。これは、古事記にあるような造化の三神ではないだろうか。では、西洋神話・宗教においては、イデア界はどう表現されたのか。ギリシア神話では、カオスだろう。そして、聖書では、何だろうか。《父》とはどうなるのか。《父》は、メディア/現象境界に存するように思う。西洋は、イデア界を忘却・忘失しているのではないだろうか。プラトンイデア界は、父権化されてはいるが、唯一のものではないのか。否、アリストテレスのデュナミスもそうだろう。また、グノーシス主義の至高天がそうではないだろうか。グノーシス主義の父がイデア界であろう。ユダヤキリスト教の父は、いわば、まがい物である。それは、ルシファー/アーリマンではないだろうか。
 思うに、イデア界とメディア界との関係が、重要である。と言うか、イデア界の1/4回転でメディア界が発生するのだから、イデア即非メディア界である。思うに、これまで、本当に、イデア界を捉えた理論は、ほとんどないのではないだろうか。唯一、数学が認識してきたのではないだろうか。つまり、ガウス平面・複素数平面であり、その回転である。
 とまれ、不連続的差異論以前において、哲学において、純粋イデア界を把捉した理論はなかったのではないか。
 今想起したが、ケルト神話の他界であるが、これは、何であろうか。これは、メディア界ということになるだろう。そう、メディア界が太母・原母ならば、イデア界は、超太母・超原母だろう。密教で言う、金剛界曼荼羅ではないだろうか。胎蔵界曼荼羅は、メディア界であろう。古事記では、タカミムスビイデア界で、カミムスビがメディア界だろうか。そして、天之御中主神とは、両界曼荼羅に当たるのではないだろうか。そして、天照大神とは、日本のイシスであり、日御子=「天皇」がオシリスであり、太母が、カミムスビである。そして、スサノオは、日御子に当たるだろう。そして、スサノオは、光であるが、同時に、背後・背景の闇を同時に指すだろう。つまり、太母・原母のカミムスビに通じているだろう。そう、思うに、光の子と闇の子が存するだろう。前者が日御子=「天皇」であり、後者が、スサノオではないだろうか。より正確に言えば、闇の子たちだろう。諸感覚・諸惑星だからだ。日御子以外に、闇御子たちがいるのだ。それらは、何処にいるのだろうか。そう、また、光のイシスと闇のイシスがいるだろう。アポロとディオニュソスである。本来、両者は共立して多様体(メディア界)であったのであろう。しかし、アポロ的なものが、肥大化して、西洋文明が生まれたと言えるだろう。これは、同一性構造中心主義が原因である。闇の排除があるのである。本当は、光と闇の共立共存のバランスがあるのである。アポロとディオニュソスのバランスである。ポスト・モダン革命とは、これの探究である。そして、不連続的差異論は、絶対的差異・イデアを発見することで、このバランスを確立したと言えるだろう。もはや、アイロニカルな没入の反動はなくなるのである。
 後で整理したいが、光と闇(複数)の共立する多様体が、必要なのである。簡単に言えば、心身のバランスである。これは、社会・政治・経済においても、そうである。ポスト・モダン革命は進行中である。