近代革命の力学構造はどういうものであったか:不連続的差異論の視点

近代革命の力学構造はどういうものであったか:不連続的差異論の視点から


先に、近代革命を、単独性と主客二元論的合理主義の二重革命であると述べた。http://ameblo.jp/renshi/entry-10011899367.html
簡単に言えば、イデア界と現象界の二重性をもつ。
 問題は、このような二元的な発露をもつ力学とは何であるのかということである。集合的精神から切り離された単独的自我を発露させる力学とは何か。あるいは、主客二元論的合理主義を生む力学とは何かである。
 集合的精神は、素朴なメディア界の精神に拠ると考えられる。何故なら、ここにおいて、差異が共鳴して、連結しているからである。しかるに、同一性構造の発生によって、それらが、否定されるのである。だから、近代革命の根因として、同一性構造の発生が考えられるのである。しかしながら、同一性構造は、通常、あらゆるところで、発生すると考えられるので、なぜ、西欧において、近代革命が起きたかの十分な理由とはならない。
 ここで、持論を言えば、ルネサンスとは、差異の発動であったのであり、それを、デカルト哲学は、理論的に継承しているということになる。つまり、近代革命において、ルネサンス文化が基盤にあるということである。そして、後のプロテスタンティズム宗教改革)は、これに対する父権的反動であり、当然、前提は、ルネサンスである。
 差異の発動がルネサンス・近代の基盤にあるということは、新たなイデア界からの賦活があったということと考えられる。だから、ルネッサンスにおいて、イデア/メディア境界からの発動があり、それが、メディア界を賦活し、そして、さらに、メディア/現象境界を活性化させたと言えるだろう。先の中世の集合的精神のメディア界性について言えば、それは、いわば、枯渇した、硬直した、形式主義となったメディア界と言うべきである。
 問題は、この差異の賦活が、自我の問題を中心にしていることである。単独的自我、単独性・特異性と関係していることである。ここで、私説を少し修正する必要がある。デカルト哲学は、ルネサンスを理論的に継承するものと述べたが、それは、不十分であると思う。ルネサンス且つプロテスタンティズムを継承していると見るべきであり、その方が、時代の流れから見て、説得力がある。つまり、こういうことである。ルネサンスは、イデア/メディア境界からのダイナミズムをもち、芸術・文化を創造した。これは、メディア界的である。それに対して、プロテスタンティズムは、超越神の下の個を説いたのであり、それは、メディア界を欠いていた。換言すると、ルネサンスは、イデア界→メディア界→現象界という、いわば、流出的な展開であったが、プロテスタンティズムは、この展開のメディア界を排除して、イデア界と現象界の二元論としたのである。プロテスタンティズムは、ルネサンス母権制)に対する父権的反動と言うこともできる。これは、メディア/現象境界における同一性構造による差異の排除・隠蔽と結びついていると言えよう。つまり、プロテスタンティズムは、メディア界ないしメディア差異に対する同一性の反動的排除・隠蔽である。しかしながら、注意すべきは、デカルトにおいては、単純な反動ではなくて、ルネサンスイデア界ないしイデア/メディア境界が生動していたことである。正に、そのように取るべきである。プロテスタンティズムにおける超越神は、イデア界的ではあるが、それは、正しく言えば、超越化されたイデア界なのである。(本来のイデア界は、超越論的である。超越性と超越論性との区別を、ここで、明確に注意しないといけない。前者は、絶対的超越性であり、後者は、内在的超越性である。
 デカルトの場合、ルネサンスプロテスタンティズムの内面的闘争があったと考えられるのである。そして、メディア界を否定するように懐疑して(懐疑主義)、イデア界(単独性・特異性)と現象界(同一性)とを結合させたと考えられるのである。デカルトのコギトとは、単独性・特異性の自我と同一性の自我との結合と考えられるのである。そして、これが、近代革命の力学構造の意味である。つまり、この二重構造は、パラドクシカルな、分裂(精神分裂)的な二重構造である。有り体に言えば、近代精神とは、精神分裂症なのである。病理的精神、狂気なのである。そして、想像を絶する災厄を人類と自然にもたらし続けているのである。
 先にも述べたが、ポスト・モダン革命は、この二重構造の近代革命の超克である。同一性構造、弁証法構造を解体して、単独性・特異性に基づく差異的自我を説くのである。それは、不連続的差異としての自我である。
 最後に付加すると、ポスト・モダン革命において、同一性はどうなるのかということである。同一性構造は、もはや、反動的ではなくなる。それは、言語を形成する必要な構造となるだろう。つまり、差異に基づく、同一性言語構造となるだろう。即ち、差異に従属する同一性構造となるだろう。差異が主人であり、同一性は従者である。しかし、この従者は、単なる従者ではなくて、差異知覚・認識の主要な方法となるだろう。差異的知性の技術である。同一性はここでは、イデア界的普遍性に仕えているのである。不連続的差異・イデア的認識のための知性技術としての同一性・言語構造となっているのである。因みに、ロゴスとは、イデア界の言語認識と言っていいだろう。