1/4回転による境界ゼロの差異即非の時空間について:新アジア主義

1/4回転による境界ゼロの差異即非の時空間について:新アジア主義と狂愚日本の危険性


メディア界とは差異が即非の状態にある。即ち、差異が分離しつつ、接合するという、絶対矛盾的自己同一の状態にある。これが、量子・素粒子時空間である。あるいは、心身空間である。
 問題は、この差異共振状態の時空間である。境界ゼロ度共振で、力が発生して、エネルギーとなる。これが、E=hν(=mc^2)であろう。ゼロ度エネルギーである。これは、差異ゼロ度接合によって発出するのであるが、ここで、差異1φ差異2φ・・・φ差異nとなるのであり、このφないし☯が、接合性であり、ここで、時空が生起していると考えられるのである。それまで、差異は、理念点に過ぎず、時空性をもっていなかったが、ここで、ゼロ度連結によって、時空性を発生させるのである。差異1・差異2・・・・・差異nこれが、不可分一体の時空間であると考えられる。ここでは、差異は粒子であり、波動である、波粒子wavicle(量子・素粒子)である。そして、量子時空間を形成している。ゼロ度エネルギーによって接合された差異は、いわば、差異の糸であり、差異の波である。差異糸波ととりあえず呼ぼう。この糸波が原空間であり、ここに流れるエネルギーが原時間を形成しているのではないだろうか。とまれ、この差異糸波(量子世界)において、時間・空間が不可分一体である。そして、共振の速度は一定であり、これが、光速度一定となるのだろう。そして、糸波の振動数が、おそらく、重力を産んでいるのではないだろうか。hν=mc^2であり、ν=mc^2/hであるからである。つまり、差異の共振速度と共振振動数が、量子・素粒子時空(差異糸波)を形成していると考えられるのである。いわば、光と重力は同時に発生していると言えるのではないだろうか。思うに、この重力が、捩れの原因ではないだろうか。差異の1/4回転によって、垂直に捩れるということであるが、発生した重力が、捩らせているのではないか。
 とまれ、これにより、二次元空間から三次元空間へと差異は跳躍するだろう。しかし、この三次元空間・立体空間は、時間と不可分一体であろう。つまり、三次元「時空」間である。時間が空間から分離していないのである。つまり、三次元空間に時間が不可分で、浸透しているとも言えるだろう。しかし、XYZの立体座標で考えると(Xが実軸、Yが虚軸、Zが捩れ軸?)、Z軸方向への捩れがあるのであるから、ここで、いわば、世界が開ける、「天地開闢」、「天地創造」が発生するのではないか。これが、天地の鉛直線方向ではないのか。思うに、−Z軸が天・上の方向で、+Z軸が、地・下の方向ではないのか。人間は、だから、いわば、上下逆さまではないだろうか。とまれ、Z軸が重力方向となるのだろう。左右がX軸で、前後がY軸方向だろう。思うに、右が、−X軸で、左が、+X軸ではないだろうか。そして、前は+Y軸で、後は、−Y軸ではないだろうか。
 とまれ、問題は時間である。共振振動数の差異が、重力の大小を発生させるならば、力の差異を産むのであり、これが、運動の差異を発生させるのであるから、これが、時間を発生させるのではないだろうか。つまり、重力の差異が、時間であるということではないのか。とまれ、これで、四次元空間/時間が生まれることになるだろう。
 では、時間が重力の差異、振動数の差異に拠るのならば、確かに、事象は生成消滅するが、重力や振動数は、普遍であるのだから、過去や未来は、イデア界・デュナミスとして、理念存在しているのではないだろうか。虚軸に過去や未来が理念存在しているのではないだろうか。ここは、いわば、原卵ないし原コーラであろう。多様な糸波と共振することで、原卵・原コーラにアクセスできるだろう。メディア界を介して、過去と未来にアクセスできるのではないだろうか。いわば、理念情報としての過去・未来である。仏教の阿頼耶識、神秘学のアカシック記録とは、ここのことではないだろうか。確かに、現象事象としては、個々の事象は、生成消滅するが、その振動数は、いわば、波形として、残るし、また、未来の波形も考えられるだろう。
 メディア界的共感性があれば、過去や未来にアクセスできるだろう。また、シャーマニズムアニミズムと呼ばれるものの心性・精神・心身は、このことを指しているのではないだろうか。メディア界的感性・感覚・知覚・認識とは、前近代、即ち、中世、古代、超古代を、差異的に反復するのではないだろうか。このメディア界的「魂」・心身とは、ポスト近代としての、それであり、反動・退行ではない。新たな感性・知性である。新意識である。近代主義は、メディア界を否定して、無化・排除・隠蔽してきたのである。そのため、狂気・暴力に満ち満ちたのである。狂気・暴力を産めよ殖やせよである。
 この、いわば、新シャーマニズム・新アニミズム的知性の潜在性は、東アジアの伝統文化に存していると考えられる。ただし、日本の場合は、ハイパー近代主義と、前近代主義が混淆されていて、精神病の状態である。知性を磨いた後でないと、この新アジア主義は、狂気日本を超狂気日本にするだろう。ここが危険な点である。似非宗教の新興宗教がさらに蔓延するだろう。いったんは、叡智を磨かないといけない。哲学を学ばないといけない。安易に宗教に染まってはいけない。宗教とは、簡単に言えば、同一性のことである。差異としての、特異性・単独性としての自我を磨かないといけない。