スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自


スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自我の力の意志


不連続的差異論では、メディア界は、心身一体の領域となるが、不可視の領域である。これは、スピノザの神即自然の領域であろう。しかし、スピノザは、心身論を説かなかった。心と身体の二元論をあくまで保ったのである。スピノザは、思惟と延長を属性とした。これをどう捉えるべきか。即ち、実体(神即自然)の属性とすることで、デカルト哲学から、離れたと言えるだろう。思うに、思惟と延長、ないし、心と身体は、不連続的差異論的には、どこに位置するのだろうか。
 思惟・知性・心はどこに位置させるべきか。確かに、メディア界に置くというのは考えやすい。しかし、問題は、メディア/現象境界である。ここでは、差異と同一性の弁証法が生起しているのである。即ち、思惟と言った場合、差異の思惟と同一性の思惟があるのである。近代自我は、同一性の思惟をもつし、また、同一性の身体をもつだろう。しかし、差異の思惟と差異の身体があるだろう。ここには、二重の思惟と身体があることになる。スピノザの思惟と延長、心と身体とは、メディア/現象境界における差異と同一性の弁証法を、差異を肯定することで、解消し、メディア界の対極性の回路を開く契機となっていると言えよう。だから、スピノザの思惟と延長、心と身体は、メディア/現象境界にあり、それが、差異の能動観念的肯定からメディア界へと浸透していくと言えるだろう。
 ということで、スピノザの心身平行論における思惟と延長、心と身体の属性を不連続的差異論的に位置且つ意味づけることができた。


 以上のようにスピノザの心身平行論を不連続的差異論的に布置できたが、では、スピノザ哲学の自我は、どういう意味をもつのだろうか。私は、これまで、デカルト哲学からの進展としてのスピノザ哲学を説いてきたが、デカルトのコギトをスピノザは、継承しているのだろうか。私はこれまで、そう考えてきたのであるが、以上のような布置からすると、再検討が必要である。
 スピノザ哲学の実体に相当するメディア界的思惟・身体(心身)は、単独的自我と同一性自我との中間であろう。おそらく、少なくとも、三つの自我がある。即ち、


1)単独自我
2)心身自我
3)同一性自我


である。そして、自我をフッサール哲学からノエシスノエマとしよう(簡単に、ノエシスマないしノエシマとしよう)。ノエシマとは、知と感覚との統一体であろう、本当は。というか。知覚そのものと言うべきかもしれない。ヌース理論で言えば、NOOS即NOSである。志向性は、感覚知覚、知覚、知性感覚である。物質的に言えば、神経である。神経の正体は、ノエシマである。ヌース理論的に言えば、造語して、 NOOSAであろう。不連続的差異論的には、差異のベクトル(方向性)である。また、造語して、知性覚としよう。知性覚が、神経の正体である。そして、これは、不連続的差異であり、また、共振差異である。そして、同一性において、身体と知性に分離する。
 とまれ、上図式は、


1)単独知性覚
2)心身知性覚
3)同一性知性覚


となるだろう。少なくとも、この三重の知性覚が存していることを確認しよう。これは、当然、イデア界知性覚、メディア界知性覚、現象界知性覚である。
 ここで、デカルト哲学に何度も言及することになるが、コギトは、1と3とが重なり合っているものであり、単純に近代自我と見ることはできない。しかし、考えると、もともと、根源には、単独知性覚があり、その展開としての同一性知性覚が生じるのである。図式化すると、


3)表層:同一性知性覚
____________

2)中間層:心身知性覚
____________

1)基層:単独知性覚



となり、基層の展開としての中間層、表層であると言えよう。とまれ、近代自我の潜在意識として、基層があることは確かである。これを、ニーチェフッサールは明確に、探求し突き止めたと考えられるのである。スピノザはそこまで達していないと思う。ドゥルーズは、中間層と基層を混同していたと考えられる。(キルケゴールは、先駆的に達していたと考えられる。シュティルナーの唯一者は、デカルトのコギトの展開のように思える。)
 近代自我とは、中間層を排除し、かつ、また、基層も隠蔽している。つまり、近代自我/近代合理主義は、中間層と基層を排除し隠蔽しているのである。近代自我の暴力性は、この排除・隠蔽という反動性にあるだろう。思うに、近代自我暴力は、基層の単独性・特異性の力に対応しているものだろう。つまり、ニーチェ的に言えば、力の意志に対応して、近代自我暴力が反動として発生していると言えるだろう。
 問題は、単独性・特異性の力は、自我においてどういう意味をもつのかである。これは、自我の根源である。原自我である。前自我である。これは、不連続であるから、メディア界的共振的連結性を断ち切る、切断、断裁すると言えよう。つまり、破壊/創造の力と言えるだろう。あるいは、独創の力、天才の力である。これは、メディア界→現象界的連続・同一性の現象を断ち切り、新しい《メディア》を創造するのではないだろうか。古い《メディア》を破壊して、新たな独創的《メディア》を新構築すると考えられるのである。その基盤は、単独・特異性の力、力の意志(イデア界の力・虚力)である。
 結局、不連続的差異論によって、この《潜在イデア》の力が明確化して、連続性を断ち切り、メディア界を純粋化したと言えるのである。それまで、メディア界は現象界と連続していたのである。つまり、両者未分化状態にあったのである。これが、明晰に分化したのである。だから、現象界からメディア界への進展がここで、明確になったと言えよう。近代の崩壊・解体・瓦解である。即ち、西洋文明の終焉である。新たな東洋文明(ユーラシア文明)の起動である。