第四の視線=C^4とは何か:「第三形而上革命」とメディア界の開花

第四の視線=C^4とは何か:「第三形而上革命」とメディア界の開花


テーマ:不連続的差異論とヌース理論


ヌース理論の半田広宣氏は、以下のように、いつもの意味深長さを含めて述べている。


さて、問題はこの視線だ。たとえバーチャルとは言え、今まで単に想像上のものだったC^4の視線が、一般大衆のもとに、これほどまであからさまに到来してきたこと。。無意識の進化はノエシス(観察軸)を絶えず新たなノエマ(被観察軸)へと変換していくことによって進んで行く。今まで虚数軸として作用していた宇宙空間からの視線をあたかも実軸へと換えてしまうようなこのgoogle earthの登場は第四の視線の活動開始を告げている。
グローバル化を手放しで喜んでいる場合じゃない。デジタルの体制は、今、文化なんてレベルじゃなく、文明の在り方そのものを変えようとしているのだ。原始土地機械から専制君主機械の登場が第一次形而上革命だとすれば、専制君主機械から資本主義機械の登場は第二次形而上革命と呼べるものだったと思う。そして、今、世界に訪れようとしているのは、第三の形而上革命なのである。しかし、この第三の無意識の革命は確実に二つの道への分岐を持っているはずだ。一方は、鉛直に垂上し、かたや他方は鉛直に落下する。そういう感覚がひしひしと伝わってきてならない。とりあえず、視線の遷移を観察子番号に対応させておく。。
●第一の虚軸(ψ7)………現実の視線/主客一体(現実界の視線)
●第二の虚軸(ψ9)………一神教の視線/主客を分離させる視線(象徴界想像界の視線)
●第三の虚軸(ψ11)………コギトの視線。神の視線を人間に同化させる視線(想像界象徴界を生殖する視線)
●第四の虚軸(ψ13)………コギトを現実界へと導く視線、そして、その一方でコギトの境界を破壊し闇の現実界そのものに破棄する視線
巨人の目の次なる進化が始まっている。これからあらゆるもののボーターが破壊されていくだろう。コギトも例外ではない。心してかかるべし。


「第四の視線の到来」 Cave Syndrome
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/06/post_ad86.html


「この第三の無意識の革命は確実に二つの道への分岐を持っているはずだ。一方は、鉛直に垂上し、かたや他方は鉛直に落下する。」という言葉は何を述べているのか。これは、その後で、「第四の虚軸」(Ψ13)で、説明されている通りのものだろう。「コギトを現実界へと導く視線」が「鉛直に垂上」するのであり、「コギトの境界を破壊し闇の現実界そのものに破棄する視線」が「鉛直に落下する」のだろう。あるいは、「垂上」と「落下」は、同時に、「第四の虚軸」なのだろう。
 思うに、これは、かつて、19世紀末から20世紀初期・前半にかけて、生起した「視線」の革命の進展と言えるだろう。この先駆は、地球規模のものであったと思う。言わば、コスモスの風、聖霊の風が、地球に接近した時代であり、美術、文学、哲学、自然科学等で、コスモスに導かれた革命が起こったエポックである。
 そして、21世紀は、「第三の形而上革命」が、より一般化する、パラダイム・シフトの転換期であり、新しいアイオーンに入るエポックなのであろう。
 コギトの変容の生起があり、近代自我・近代合理主義が解体するということであり、対極性のコスモス的主客「即非」(一体であると同時に、分離しているという東洋哲学を概念を表す鈴木大拙の用語)へと進展するということである。ドゥルーズガタリが、前個体と呼んでいた領域の開闢である。これは、不連続的差異論的に言うと、ポスト・ポストモダンである。何故ならば、フランスのポスト・モダンは、ドゥルーズ哲学に見られるように、差異の特異性と差異の連続性の区別が不十分であったからである。前個体・ポスト自我(道元の身心脱落に相当しよう)へと明晰に、透明に、進展するには、差異を不連続化して、いったん連続性を切断する必要があるのである。さもないと、アイロニカルな没入で、ないし、近代自我の同一性によって、反動化するのである。政治的には、20世紀初期・前半にあったように、ファシズムないし全体主義となる。
 しかし、不連続的差異論やヌース理論のような、いったん、感性的連続性ないし自我連続性を断ち切った、理念知性(叡智)化によって、もはや、理論的には、ファシズム全体主義化は成立しないのである。(因みに、D.H.ロレンスは、一時、連続性から、ファシズムに近づいたが、ハイデガーのようにファシズムに加担することはなく、ファシズムを否定して、文学芸術的に、不連続的差異の共立を表現したのであり、その基盤の上で、コスモス(暗い宇宙の薔薇)を暗視したのである。)
 思うに、「第三形而上革命」とは、政治・経済的には、聖霊政治的資本主義となるのではないかと考えている。

p.s. 少し、読みが浅かったようだ。垂上への視線(コスモスへの視線だろう)が、第3次形而上革命を指し、鉛直の落下の視線が、google earthの巨人の目の視線なのだろう。(p.s. これも、読みが浅い。そうではなくて、google earthは、第3次形而上革命の現象界的契機ということだろう。)

p.p.s. また、梵我一如(ブラフマンアートマン)の螺旋的回帰する宇宙的エポックなのだろう。ただし、違いは、不連続性の有無である。即ち、以前は、自我と宇宙=神(メディア界の神)は連続していて、いわば、未分化であった。「主客一体」であった。しかし、近代主義によって、客体から分離された主体が成立したのであり、この分離を前提に新たな主客合一が形成されるということである。これは、新しいアジア的意識と言える。考古学的には、巨石文化・女神文化の螺旋的回帰である。しかし、ジェンダー的には、一種両性具有と言えよう。しかし、これは、もっと、多元生成的な両極的なジェンダーである、ドゥルーズが述べているように。そして、これは、結局、超ジェンダーないし非ジェンダーとなるだろう。女性でも、男性でもない、ジェンダー(非ジェンダー)である。勿論、中性でもない。
 簡単にまとめると、近代主義ないしコギト主義による主客分離によって、絶対的個体化が形成された。これが、以前からの決定・絶対的切断契機である。そして、コギトを基盤として、新しい主客合一が生起・形成するということである。だから、ポスト・コギトと言えるのだろう(デカルト哲学からスピノザ哲学へ)。コギトが、コスモスと合一するのである。(この点を、精緻に説明する必要がある。別稿で、検討したい。)