メディア界《コスモス》の幾何学とは何か

以下は、「検討問題:新しい螺旋的回帰の意味:新しい主客合一・一体化の意味:コギトとポスト・コギトの関係」の第四の項を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10013453062.html

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4)メディア界《コスモス》の幾何学とは何か

(思うに、簡単に言えば、多様体である。あるいは、フラクタルな宇宙であろう。ここでは、知と存在、ないし、心と身体が両極的に共振結合しているだろう。
 この両極共振結合とは、原生命を意味するだろう。また、当然ながら、森羅万象の母型(マトリックス)である。ついでに言えば、質料とは、ここ、メディア界を指しているだろう。そして、これは、アリストテレスのデュナミスである。そして、プラトンのコーラである。そして、同時に、アリストテレスエネルゲイアである。
 これまで、デュナミスをイデア界に置いていたが、微妙なところである。デュナミス⇒エネルゲイアであるが、デュナミス「即非エネルゲイアとすることができる。こういうことだろう。メディア界において、差異と差異とが共振する。それは、ノエシス(知性)がノエマ(感覚・身体)の交信を介して、他のノエシス(知性)と連結するということである。この差異共振は、多様な可能態であり、同時に、現実態(エネルギー態)である。即ち、可能態(デュナミス)「即」現実態(エネルゲイア)である。
 こう考えると、デュナミスは、イデア界に置かない方がいいように思える。しかし、潜在性を言うならば、デュナミスは、イデア界に置いた方がいいだろう。すると、問題は、可能態と潜在態をどう考えるのかということである。アリストテレスは、質料と形相との結合で、個物が形成されると考えたのである。しかし、メディア界においては、質料は、ノエマ的共振「身体」性と考えることができるし、また、形相は、ノエマ的共振的原形態で説明できるだろう。だから、アリストテレスは、プラトンを補完したに過ぎないように思えるのである。
 そうならば、可能態はメディア界の半面のノエマ的身体(ノエマ的質料)であり、潜在態をイデア界と区別するのが適切のように思える。結局、私のデュナミス/エネルゲイア/エンテレケイアという三層論を訂正して、

イデア潜在性/メディア界(デュナミス・エネルゲイア)/現象界(エンテレケイア)

となる。
 さて、ここで、Kaisetsu氏のラディカルなイデア界のイデア不在論に少し言及すると、方向性とは、不連続的差異の《力》(=虚力?)のことと考えられる。これは、前メディア界の領域であり、まだ、まったくの無形と考えられる。「絶対無」とも言えるだろう。ここで、想起するのは、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』で、エイハブ船長が白鯨を探求している最中に、存在の究極を知りたいと言い、そして、結局、段ボールのように、向う側には何もないかもしれないが、それでも、いいと言っていることである。段ボールをメディア界とすれば、メディア界の彼岸に何もないというのは、イデアの不在に通じるように思えるのである。これは、ニーチェでは、力の意志であり、ヌース理論では、NOOS・NOSA&NOOS*・NOSA*であろう。これは、おそらく、潜在イデアと呼べるだろう。あるいは、前イデアである。
 さらに問題は、これは、何を意味するのかということである。私はだいぶ以前に、イデア界史というようなことを言った。イデア/メディア界的螺旋的「歴史」=進化史のことである。第一の1/4回転、第二の1/4回転、第三のそれ、・・・はそれぞれ、異なる進化的意味があると思えるのである。ニーチェ流に言えば、生成の無垢であるが、この無垢は、進展的無垢だと思うのである。第一の1/4回転で、ゼロ度共振が発生する。これは、宇宙の誕生である。そして、第二の1/4回転で、それが消滅するのではないだろうか。そして、第三のでは、新たに、宇宙が生成する。それは、最初の宇宙とは正反対となるだろう。第一の1/4回転は+虚軸への回転であり、第三のは、−虚軸への回転である。これは、いわば、負の回転とも言えるだろう。これは、作業仮説として、分離からの再統一を意味すると言えないだろうか。ヌース理論から言うと、等化であったろうか? とまれ、+虚軸回転を対化(二元論化)として、−虚軸回転を一元論化としよう。この点については、後で、検討したい。