聖霊資本主義、差異共立資本主義、メディア界的資本主義とは何か

聖霊資本主義、差異共立資本主義、メディア界的資本主義とは何か


資本主義は、何らかの価値(物質、精神、情報、他)を創り、それを、市場を仲介して、競争して、消費者に販売して得た利益で、展開・進展する経済システムである。ここでは、現象界の同一性である貨幣による利益が目的であると言っていいだろう。食品、家電製品、住宅、情報、福祉、教育、等々、多様な価値が資本主義生産の目標となる。
 私は以前、価値を差異と見てきた。差異価値である。これは、個々の価値は、差異であるということである。あるいは、個々の価値は特異性であると見てきた。例えば、わたしの目前に、コーヒーカップがあり、コーヒーが入れてあるとしよう。このコーヒーは差異であり、特異性であると私は思う。また、同一性である。同一性とは一般性である。コーヒーという一般観念である。(ここでは、以前の私見を展開することにして、新しい考えは入れないことにする。)
 このコーヒーをc1としよう。c1は、私が所有しているものであり、他の誰のものでもない。誰かが、c1を取れば、私は怒る。ここは、c1か、否かの、二律背反の世界である。これが現象界のあり方の基本の一つである。
 ところで、私がオフィスにいて、オフィスで全体で、コーヒー豆を買い、そのコーヒーを社員が飲むとしよう。この場合、私の目の前の、コーヒーc1は、誰の所有だろう。とりあえず、私がポットからついで、飲もうとしたのであるから、私にいちおう占有権がある。しかし、これを、仲間が横取りしたとする。いちおう、いぶかしがるが、また、カップにつげばいいのだから、とりたてて、腹を立てないという場合が考えられる。
 ここでは、c1は、私のものであり、且つ、私のものではないのである。矛盾同一が成立するのである。これは、矛盾共立とも言えよう。メディア界の事象である。
 私が、聖霊資本主義(差異共立資本主義、メディア界資本主義)で考えるのは、後者のような場合である。これは、社会主義ではない。社会主義は、生産手段を集合化するものであるから。コーヒーは、集合化された権力が所有し、支配するのである。聖霊資本主義は、あくまで、資本主義である。コーヒーは、私のものであり、且つ、私のものではない。ここには、余剰の必要がある。もし、コーヒーが多量になければ、共立は成り立たない。
 では、多量に、豊富にコーヒーがあったとしよう。では、これは、誰が生産し、買い、管理するのか。コーヒー農場で働いている人Aが生産するのであるし、お金を持っている人Bが、売店で買うのであり、また、オフィスのコーヒー係Cが管理するのである。A,B,Cが共立しなければ、この連鎖は成立しない。誰かが欠けても、切断される。
 ともかく、A,B,Cが存立する必要がある。これが、簡単な聖霊資本主義である。Aに賃金が足りなければ、崩壊するし、消費者にお金がなければ、同様であるし、Cが、管理をいい加減にすれば、また、同様である。この差異の共立のバランスが必要なのである。
 しかし、グローバル資本主義は、弱肉強食で、少数者が勝利し、多数者が敗者となる。どこに問題があるのだろう。なにが、聖霊資本主義を阻害しているのだろうか。民主主義は、本来、聖霊主義である。差異共立主義である。どうして、民主主義が機能しないのか。それは、簡単に言うと、聖霊知が欠如しているからだと思う。聖霊知性があれば、バランス作用がはたらき、政治が聖霊化するはずである。そして、聖霊資本主義となるはずである。
 近代は、反聖霊主義である。それは、同一性による二項対立の世界である。二項対立的に、一般概念の同一性が、差異を支配するのである。近代自我、近代合理主義から脱却して、聖霊知性を獲得することが必要なのである。これで、聖霊資本主義が近づくはずである。
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■補足:豊かな自然も必要だ

コーヒー農園のためには、それなりの、土地が必要である。だから、自然へのケアも必要なのである。これも、バランス知性、聖霊知である。
 自然(宇宙)と都市との循環を目指す聖霊知性が必要である。
renshi (2006-06-08 00:39:51)