半田広宣氏の「独自の生殖機械」へのコメント:聖霊資本主義へ向けて

半田広宣氏の「独自の生殖機械」へのコメント:聖霊資本主義へ向けて


テーマ:不連続的差異論とヌース理論


半田広宣氏のコメント「独自の生殖機械(1)〜(3)」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10013180233.html
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《■独自の生殖領域(1)

>同一性(父権制)が、差異(母権制)を支配する領域が、「独自の生殖領域」だろう。共振差異を否定する暴力的同一性の生殖である。火星(マルス、軍神)ないし白羊宮的と言えるのではないだろうか。

 《renshi 氏のおっしゃる通りだと思います。「独自の生殖領域」というのは、象徴界想像界の間で性倒錯が起こる場所という意味で書きました。神話的に言えばオゴ(ドゴン神話)や蛭子(古事記)が生まれてくる領域に当たります。オイディプスの父殺しの現場ですね。子が愚かにも母と交わってしまう。父と子のユダヤ的契約が行き過ぎて、父殺しが起こり、何を勘違いしたのか、子が王の座へと着いてしまうわけです。ここで、無意識の欲望回路の逆転が起こります。宇宙的エロスであった享楽の力がウォルプタスへと反転し、いわゆる快感原則の回路がセットされてくることになります。その変わりに、享楽(死への欲望)への回路は完全にシャットアウトされ、死者隠しの近代、宗教嫌いの近代、オカルティズム侮蔑の近代が出現してくる。

 その意味で、この倒錯した生殖機械は反転した闇の現実界である、とも言えるでしょう。こうした仄暗い生殖が起こる領域のことをカバラはクリフォト(殻)と呼んでいます。これは、近代自我が居座っているニセの容器とも言えます。おっしゃる通り、この容器の本質はディーン(火星)の闇の中にあります。シュタイナーが「ソラト」と呼んだものではないかと思います。》

ドゴン族のオゴについては、残念ながら、知りません。蛭子ですが、私は、逆説的に肯定的にとっています。聖母マリアに対するマグダラのマリアユダヤ神秘主義リリスと似ているのではないかと思います。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/lilith.html

つまり、蛭子こそ、本当の「卑弥呼」ではないかと思います。また、「ソラト」ですが、これは、怖いですね。確か、ヨハネの黙示録の悪魔の名前ではなかったでしょうか。
 「宇宙的エロスであった享楽の力がウォルプタスへと反転し、いわゆる快感原則の回路がセットされてくる」に関しては、まったく同感です。D.H.ロレンスは、宇宙的エロスを説いていたのですが、俗物凡人たちは、理解できるはずはなく、それを猥褻ととりました。
 「享楽(死への欲望)」に関連してですが、バタイユを否定的に言いましたが、彼を、ヘーゲルニーチェの折衷と考えると、彼の暴力には、「享楽(死への欲望)」への志向があると思います。しかし、「死への欲望」とは、スピノザ歓喜だと思います。あるいは、ニーチェ永劫回帰だと思います。フロイトは、これを唯物論的にしか捉えられませんでしたし、ユングは、反動的に、観念論的に、集合的無意識にしてしまったのでしょう。ラカンは、ほとんど、正確に捉えていたとは思います。ただし、アンチ・オイディプス化させて捉えるべきと思っています。そう、ルドルフ・シュタイナーの「霊」とは、これに近いと思っています。

 《ただ、クリフォトが唾棄すべき無用な存在かというと、そうではないと思います。ここでは、哀れながらも繊細で美しい有機体の生命活動が営まれているはずです。ドゥルーズが「バロック(襞)」として表現したものも、こうしたクリフォトにおける生殖の営みの連鎖性・連続性についての事柄だと思います。神ではなく、コギトとして光と影を操り、それら両者のコントラストを交互に織り混ぜながら、個体に託されたエロスの活動を行って行く。それがバロック的運動というものでしょう。
半田広宣 (2006-06-03 16:12:25)》

ここが、私にとって、とても新鮮な叙述です。ドゥルーズの「バロック(襞)」は、難解で、私には、二元論的にしか思えなかったのですが、確かに、メディア/現象境界の差異と同一性との弁証法として見ることができるよに思えます。おそらく、近代における、優れた作家・芸術家は、「バロック」的だと思います。「バロック」的ではない、作家は、凡庸だと思います。
 でも、小泉首相は、ここから見ると、「バロック」的だと思います。彼ののらりくらり・いい加減精神と魔女狩り的精神の併存は、ある意味で、驚嘆すべきものです。

《■独自の生殖領域(2)

さて、オイディプスによるこの父殺しの構図をヌース理論的にトポロジーとして見ると、三次元球面(人間における主体統合)の時空的一点への同一化として解釈することができます。ペンローズのいうツイスターファイブレーションです(実際、ツイスターファイブレーションは資本主義機械が生まれてくるとしたC^4上で起こります)。これは内在であったものが超越側へと接続するときの位置の幾何学的表現と言っていいと思います。カント風に言うならば、主観形式と客観形式の結節点です。ここで、点概念に強大な霊力が宿ることになります。

 この点概念の突然変異により、数学的に構築された理念性の世界が延長空間に張り巡らされて行くことになります。ドゥーズのいう公理系。つまり、デカルトガリレオ的思考による近代科学思考の勃興ですね。科学は変質した点を「物体の質点」として語り、それがなぞる幾何学的法則性によって僕らの世界が営まれているかのような言説を生み出してきます。しかし、ご存知のように、そこではフッサールのいうところの「数学的に構築された理念性の世界と、現実に知覚的に経験された世界(日常的世界)とのすり替え」が起こっています。要は、科学が扱う世界はモノを扱っているようで、モノなどどこにも存在していないわけですね。モノが存在しないということは、光との連結を失っているということです。光とは、存在の出力と入力の橋渡し役そのものですから、コギトの科学王国はこうした存在の生成回路とは不連続の領土を形成しているわけです(ヌースでは不連続質と呼びます)。バロックの字義通り、生活空間と、この不連続の領土の間に「歪んだ真珠」、つまり、光と闇との間の拮抗で歪曲させられた人間の魂、のリトルネロが流れていくことになります。
半田広宣 (2006-06-03 16:13:53)》

ペンローズに関しては、よくわかりませんが、この箇所は、私の直観が納得します。すばらしい叙述だと思います。現代の科学者に読ませたい説明だと思います。「科学が扱う世界はモノを扱っているようで、モノなどどこにも存在していない」というのは、正鵠を射ています。その通りです。結局、延長空間をモノとしているに過ぎないのです。でも、ここは、驚異的な叙述だと思います。昔の、唯物論に囚われていた私に読ませたい叙述です。
 フッサールに言及されていますが、フッサールは、ある意味で変な人ですね。「民衆」ですが、大天才です。生活世界は、「民衆」の世界だと私は思っています。もっとも、「民衆」は大衆の正反対ですが。

《■独自の生殖領域(3)

こうしたバロック的な反復運動の中でコギトの自己同一性をかたくなに保証していくものが、紙幣の行使、つまり、経済活動(資本主義機械)なのでしょう。真の現実界ではモノを通して主体の交換が行われていくのですが、闇の現実界の空間では主体を通してモノの交換が行われるようになってしまう。宇宙エネルギーの交換関係が丸ごと反転してしまっているわけです。聖霊の力がウォルプタス(人間的な悦楽・喜び)へと変質し、貨幣(紙幣)となって巡回し、悪夢のように周り続ける。誰でも紙幣をつかんだときにこみ上げてくる、あの得体の知れない薄気味悪い笑みを思い浮かべて見れば分かるでしょう。そこで笑わせているのがウォルプタスそのものです(わたしも例外ではありません)。

 紙幣は神(国家)の名において脱コード化の能力を与えられます。売買という行為を通して相対的差異を持ったものすべてがこの貨幣を媒介として同一性の空間に叩き込まれて行く。芸術、セックス、愛はいうまでもなく、哲学や宗教までもが。。何と言うコギトのどん欲さ。貨幣とは、こうした反転した主体による反転した現実界で暗躍する反転した聖霊群とも言えますね。銀行や証券会社はこれらの聖霊力を狩り集め、都市の中心部に物神崇拝の教会・寺院として君臨している。世界は中世とさほど変わっていない。。。質こそ変われ、まだまだ暗黒時代なのでしょうね。
半田広宣 (2006-06-03 16:14:42)》

「反転した現実界で暗躍する反転した聖霊群」はその通りです。裏返しの聖霊群としての貨幣・紙幣・資本です。ここを、どうやって、さらに反転させるのか、これを、ずっと私は考えてきました。現代は、確かに、黙示録的時代ですが、逆黙示録的ではないかと思っています。反転した聖霊群は、自分を、神側と思っています。しかし、本当は、悪魔側です。
 とまれ、この反転の反転の契機が何であるのか、それを探求しています。直観では、本当の聖霊の時代になりつつあるとは感じますが、決定的なものは何なのか。ヌース理論や不連続的差異論が、その意味をもつと信じていますが、もっと、直截な何かがあるような感じがしています。
 ルドルフ・シュタイナーは、現代は、新しい霊的太陽(p.s. 霊的キリスト)を見る時代であるというような予言をしていたと思います。この点で言えば、『死んだ男』で、D.H.ロレンスは、それを表現していると思います。復活したオシリスとしての「イエス」です。でも、彼は、天才です。私は、もっと、普通の人にもわかる聖霊があるような気がしています。貨幣を裏返せば、聖霊ですよね。つまり、聖霊資本主義ではないかと思います。聖霊としての資本です。現代の倒錯聖霊資本主義から、正道聖霊資本主義への転換です。換言すれば、現象界的資本主義からメディア界的資本主義へのパラダイム・チェインジです。明治維新を創出した人たちは、聖霊資本主義だったと思いますが、すぐ、反動化して、倒錯・反動聖霊資本主義になり、太平洋戦争という奈落に転落し、世界に多大な被害を与えました。そして、戦後は一時、正道聖霊資本主義でしたが、すぐ、反動化してしまったと思っています。アメリカ人を巻き込むようにしないと、世界は正道聖霊資本主義にはなりませんね。アメリカ人は意外に、これを理解できると思っています。もっともやっかいなのが、日本人かもしれません。
 とまれ、すばらしい論考をありがとうございました。