デリダ哲学からドゥルーズ哲学へ、さらに不連続的差異論・ヌース理論

デリダ哲学からドゥルーズ哲学へ、さらに不連続的差異論・ヌース理論へ


以下の『差異と反復それでも差異と反復 』氏の論考「★差異に手向ける断片七章★・・・「デリダ的差異とドゥルーズ的差異」」
http://ameblo.jp/bloghiro-dive/entry-10013293792.html
に興味を感じたので、コメントしたいと思う。氏の論述は《 》で括り、青色文字で括る。

《★差異に手向ける断片七章★・・・「デリダ的差異とドゥルーズ的差異」

デリダは、差異の「場=トポス」を開く因子として他者性を持ち出す。ここでいわれる他者とは、概念の内部に潜伏していて、その性格を顕在化させることで概念を瓦解させるようなものである。ヘーゲル流にいえば、止揚された状況において、反定立=定立が頭をもたげ、概念の正当性を危うい状況に陥れる。その「場」に開かれるのがデリダのいう差異である。それゆえ、デリダ的差異とは内部的である。そして、その差異の性格は相対的である。あくまで概念の内部の闘争であるからである。》

私は、デリダをよく読んでいずに、勝手に解釈している面があると思えるが、ここをよく読むと、デリダ哲学の意味がわかるような感じがする。ここで、言われているのは、内在的な差異である。それが、概念=同一性を瓦解するということだろう。そう、この記述は、デリダ差延哲学を見事に叙述していると思う。確かに、概念=同一性の内部に差異を生起させて、同一性の根拠を揺さぶる。つまり、批判である。相対的批判である。これはこれで、意味がある。これが、脱構築主義である。これは納得できる。

《一方、ドゥルーズの開く差異の「場」は、デリダ的、内部的とは異なる。そこには、内部も外部もない。前述のようにヘーゲル流にいうならば、ドゥルーズのいう差異の「場」は、ひたすら定立が交錯しながら存在する「場」である。例えば、デリダ的にいえば健常者を脱構築するために、他者として障害者を対峙させるだろう。そうすることによって、「健常者ではない」存在者との差異の場が開かれ、健常者の同一性が揺さぶられ、差異の場が開かれる。しかし、ドゥルーズの場合は、差異の場を開くために脱構築そのものを必要としない。健常者と障害者を対峙させたところで、そこには「健常者」と「障害者」という存在者がいる場しかない。どちらも顕在化された存在者である。こういってもよい、そこには他者も自己もない。定立も反定立もない。それがドゥルーズのいう差異である。デリダの相対的差異に対して、ドゥルーズの差異とは絶対的差異である。どちらが他者でも、どちらが瓦解されるものでもない。そして、ドゥルーズのいう差異の「場」には、共生とでもいう「場」が開かれるのみである。》

このドゥルーズの差異の説明は、明敏だと思う。確かに、健常者と障害者は、ドゥルーズにおいては、脱構築関係にはならない。健常者は、一つの差異であり、障害者も一つの差異である。それらの差異は共立・共生・共存するのである。いわゆる、存立平面においてである。これは、不連続的差異論で言えば、メディア界における差異の共立事象である。(因みに、イデア界は、差異の共立の原事象領域であろう。)
 不連続的差異論から、デリダ脱構築主義を言うと、それは、メディア/現象境界における差異の発現であろう。これは、ヘーゲルに近いが、ヘーゲル弁証法を瓦解するのである。つまり、対極性を指示して、同一性を脱構築するのである。だから、デリダドゥルーズはちょっとした違いのように思える。ドゥルーズ哲学は現象を超越した内在平面での差異の共立を説くのに対して、デリダ哲学は、ドゥルーズの用語を用いれば、内在平面と現象概念(同一性)とのズレを指摘して、現象概念(同一性)の解体を説くのであると言えるのではないだろうか。だから、デリダ哲学は、現象概念の批判の第一歩であるが、ドゥルーズ哲学はそれを超えた一歩であると言えるだろう。デリダからドゥルーズへである。
 そして、不連続的差異論から言えば、ドゥルーズから不連続的差異論やヌース理論へである。

http://ameblo.jp/bloghiro-dive/entry-10013293792.html

『差異に手向ける断片七章』