アレゴリーとシンボルの問題:「文学史」の書き替えに向けて

アレゴリーとシンボルの問題:「文学史」の書き替えに向けて



以下は、「受胎告知の問題:2」のコメントとその続きである。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10013197397.html

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アレゴリーとシンボルの問題


本件の問題で、メディア界知性(差異)と現象界知性(同一性)を区別したが、近代主義は、これを混同している、ないし、未分化であると言えるのではないだろうか。メディア界と現象界との未分化という近代主義の事態、これは、また、アイロニカルな没入に関係するし、また、ドゥルーズの差異哲学の差異=微分の問題に関係すると思われる。
 繰り返しになるが、不連続的差異論は、不連続的差異を提起したことで、この未分化的事態を、解消したと考えられるのである。
 ここでは、文学や芸術のアレゴリーとシンボルの問題に少し言及したい。ベンヤンミンの批評によって、前者が今日、評価されている傾向にある。しかし、アレゴリーとは、簡単に、観念・概念の形象化であり、シンボルのように、感性・心身性の形象化ではない。私が問題にしたいのは、観念・概念である。単に言語観念・言語概念ならば、同一性の観念・概念(知性)である。つまり、現象界的知性である。ということは、アレゴリーは、注意しないと、現象界の知性に堕すると言えるだろう。即ち、言語観念・言語概念=現象界知性によるアレゴリーとなるということである。これは、イマジネーション(メディア界)のあるアレゴリーではない。つまり、視覚的イマジネーションの死がここに生起するのである。換言すると、現象界がメディア界を滅ぼすのである。どうも、アレゴリーの評価は、このような近代主義と平行しているのではないだろうか。

(続き)

 ロマン主義におけるシンボルの強調は、メディア界によると考えられるのである。つまり、現象界的形象に対する、メディア界的形象の強調である。そして、フランスのサンボリスム象徴主義ボードレールマラルメ)は、シンボルとアレゴリーのバランスを志向しているように思えるのである。つまり、サンボリスムは、アレゴリー性はあるものの、シンボル性も十分機能しているということである。このシンボル性の護持の有無に、「モダニズム」の問題があるように思うのである。簡単に言えば、「モダニズム」は、シンボル性を喪失して、言語観念・言語概念の形象化、即ち、現象界の形象化を行なったのではないだろうか。つまり、メディア界を喪失して、現象界的形象化に向かったのではないか。それが、例えば、初期においては、エズラ・パウンドのイマジズムに、後には、『カントーズ』に、あるいは、T.S.エリオットの古典主義に、あるいは、アメリカの「モダニズム」詩人W.C.ウィリアムズの "No ideas but in things"(物以外に、観念はない)の「唯物論」に見られるだろうし、また、「モダニズム」の頂点と考えられているジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の言語観念・言語概念と現象界の形象を結合した手法に見られるのではないだろうか。それらは、アレゴリーではないが、言語観念・言語概念の形象化というアレゴリーの堕落の志向性が共通だと思えるのである。

 そのように考えると、パウンドの『カントーズ』やジョイスの作品の味気なさ、イマジネーションの貧弱さ等が理解できるように思うのである。つまり、メディア界、イマジネーションではなくて、現象界の形象、言語観念・言語概念の形象を表現しているのである。同一性の視覚・知覚、同一性の形象力、つまり、現象形象力、現象リアリズムだけなのである。英米モダニズム」は、言わば、言語イマジネーション芸術(言像芸術)を、殺してしまったと思うのである。「文学」アカデミズムは、英米モダニズム」を評価してきたが(もっとも、今日、「モダニズム」批判が生じている)、これは、自殺的な評価ではなかったか。本来、「モダニズム」の時期の天才であり、筆頭とすべき作家であるD.H.ロレンスを、「モダニズム」志向のアカデミズムは、隅に追いやったのである。「モダニズム」期における生新なイマジネーションは、ロレンスやヴァージニア・ウルフに存するだろう。そして、イマジネーションの死は、エリオット、パウンド、ジョイスにあるのではないだろうか。英米モダニズム」を否定・批判することで、新しい文学史の地平が啓けてくるだろう。

裸の王様としての「モダニズム」であり、その不毛性から脱することが、「文学」や芸術の復活となるだろう。