受胎告知の問題:1&2

受胎告知の問題
テーマ:一神教多神教
《#イオン 『Toxandoria様

前回はどうも「釈迦 の耳に説法」的なコメント で失礼しました。

さて今回のrenshi様のコメント に付け加えるとすれば、マリア への受胎告知はイスラーム聖典 クルアーンコーラン )でも記載されています。クルアーン の第19章は「マルヤム(マリア )の章」と題されています。「聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、イエス を出産 し、イエス預言者 であると宣言するまでの物語 は同章第16節から第34節を御覧下さい。

またrenshi様の言われる「イデア 界のメディア 界化」とは難解で今ひとつ理解出来ないのですが、私なりに一言加えさせて頂きます。受胎告知をする天使 ガブリエル はイスラーム 哲学 のイブン・スィーナー(アヴィセンナ)などでは知性世界を形成する十の知性体のうちの最下位 の存在 に結びつけられることがあります。

またこの第十の知性体はアリストテレス 主義の伝統 の知性論でいう人間 の知性を現実化する能動知性と結びつけられますし、またイブン・スィーナーによればこの知性体=天使 がこの月下世界=地上世界の造物主となります。つまり知性世界(=イデア 界、叡智界)の中でも地上世界に関わりの極めて深い存在 となります。(以上H. Davidson, ”Alfarabi, Avicenna, and A verroes on Intellect” (New York /Oxford: Oxford UP, 1992), H. Corbin, ”Avicenna and Visionary Recitals,” tr. W. trask (Princeton : Bollingen Foundation, 1960)など参照)。

この天使 が地上世界のマリア に現れて受胎告知するのですから、イブン・スィーナ−などの表象 を借りれば、マリア のいる風景 を一瞬だけでも叡智界=知性世界化すること、と言えないこともないでしょう。それを絵画化や物語 の中で表彰することを、叡智界=知性世界がメディア 化する、という意味 に私なりに解釈しております。どうも失礼しました。

Toxandoria様、いつもながら思索へと人を強く促す論考を有り難うございました。またrenshi様にも興味深いコメント で思索させて頂きましたこと御礼申し上げます。』

# イオン 『申し訳ありません。

文章が乱れていますので、訂正致します。

クルアーン 第19章「マルヤムの章」についてですが、「「聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、イエス を出産 し、イエス預言者 であると宣言するまでの物語 」を

聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、マリア がイエス を出産 し、イエス が自分が預言者 であると宣言するまでの物語 」と訂正致します。失礼しました。』》
toxandriaの日記

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060530/p1


以上のイオン氏のコメントは、とても興味深い。
「受胎告知をする天使 ガブリエル はイスラーム 哲学 のイブン・スィーナー(アヴィセンナ)などでは知性世界を形成する十の知性体のうちの最下位 の存在 に結びつけられることがあります。」
と述べられているが、これは、カバラの10のセフィロートを想起させる。最下位とは、マルクトを想起させる。また、グノーシス主義では、ソフィアである。
 さらに、能動知性と述べている。これも意味深長である。スピノザの能動的観念を想起する。
 この問題はかなり微妙であり、速断できる知識は私にはない。また、イデア界のメディア化について触れられているが、イオン氏の解釈はそれなりに正しいと思う。聖母マリアをどう解釈するかが問題だと思う。私は、解釈は、聖母マリアは、不連続的差異論のメディア界なのである。しかし、聖母マリアは地上的存在でもあるから、事情は複雑である。不連続的差異論的には、聖母マリアは、メディア界/現象界の境界のメディア面的存在ではないだろうか。そう考えると、天使ガブリエルとつながるだろう。
 今は、簡略的に答えることしかできないが、受胎告知とは、メディア界の現象界化への寸前であると思えるのである。メディア/現象境界では、近代となる。それ以前である。だから、メディア/現象教化のメディア面である。
 とまれ、十の知性体とカバラの十のセフィロートは一致するとして、それらは、どこに属するのだろうか。思うに、これは、メディア界ではないだろうか。それとも、イデア界なのだろうか。後で、さらに考察したい。

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受胎告知の問題:2
テーマ:叡智学
もう一度整理したい。私のコメントを黒字で書く。
《#イオン 『Toxandoria様

前回はどうも「釈迦 の耳に説法」的なコメント で失礼しました。

さて今回のrenshi様のコメント に付け加えるとすれば、マリア への受胎告知はイスラーム聖典 クルアーンコーラン )でも記載されています。クルアーン の第19章は「マルヤム(マリア )の章」と題されています。「聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、イエス を出産 し、イエス預言者 であると宣言するまでの物語 は同章第16節から第34節を御覧下さい。

クルアーンのイエス預言者論は、なにか、グノーシス主義のイエス(『トマスの福音書』)を想起させる。ここでは、作業仮説的に、

預言者のイエスグノーシス主義のイエスと仮定しよう。

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またrenshi様の言われる「イデア 界のメディア 界化」とは難解で今ひとつ理解出来ないのですが、私なりに一言加えさせて頂きます。受胎告知をする天使 ガブリエル はイスラーム 哲学 のイブン・スィーナー(アヴィセンナ)などでは知性世界を形成する十の知性体のうちの最下位 の存在 に結びつけられることがあります。

聖霊=天使ガブリエル=第十番目の、最下位の存在(イブン・スィーナー)・・・カバラの第十番目のセフィロート(マルクト)



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またこの第十の知性体はアリストテレス 主義の伝統 の知性論でいう人間 の知性を現実化する能動知性と結びつけられますし、またイブン・スィーナーによればこの知性体=天使 がこの月下世界=地上世界の造物主となります。つまり知性世界(=イデア 界、叡智界)の中でも地上世界に関わりの極めて深い存在 となります。(以上H. Davidson, ”Alfarabi, Avicenna, and A verroes on Intellect” (New York /Oxford: Oxford UP, 1992), H. Corbin, ”Avicenna and Visionary Recitals,” tr. W. trask (Princeton : Bollingen Foundation, 1960)など参照)。


アリストテレスの能動知性とスピノザの能動的観念はほぼ一致するだろう。また、先にも述べたが、不連続的差異論から見ると、メディア/現象境界のメディア面ないし、メディア界の「最下位」に相当するだろう。
 また、イブン・スィーナーの能動知性=造物主という考えであるが、それは、デミウルゴスプラトンの創造神)や旧約聖書の創造神を想起させる。ここは、微妙である。能動知性による創造と旧約聖書的創造は、違うと私には思えるのである。前者は、コスモス、不連続的差異論のメディア界的コスモスに基づく創造であるが、後者は、メディア/現象境界における同一性(悪魔:シュタイナーのアーリマン)による創造ではないだろうか。グノーシス主義が批判した邪悪な神(デミウルゴス)による創造ではないだろうか。
 整理すると、
1)能動知性の創造
2)同一性の創造
があり、創造神デミウルゴスとは、両方を指して、即ち、混同的に使用されているだろう。

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この天使 が地上世界のマリア に現れて受胎告知するのですから、イブン・スィーナ−などの表象 を借りれば、マリア のいる風景 を一瞬だけでも叡智界=知性世界化すること、と言えないこともないでしょう。それを絵画化や物語 の中で表彰することを、叡智界=知性世界がメディア 化する、という意味 に私なりに解釈しております。どうも失礼しました。

Toxandoria様、いつもながら思索へと人を強く促す論考を有り難うございました。またrenshi様にも興味深いコメント で思索させて頂きましたこと御礼申し上げます。』

# イオン 『申し訳ありません。

文章が乱れていますので、訂正致します。

クルアーン 第19章「マルヤムの章」についてですが、「「聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、イエス を出産 し、イエス預言者 であると宣言するまでの物語 」を

聖霊 」がやってきてマリア に受胎を告げ、マリア がイエス を出産 し、イエス が自分が預言者 であると宣言するまでの物語 」と訂正致します。失礼しました。』》


toxandriaの日記
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060530/p1

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ここで、簡単にまとめると、受胎告知とは、思想・歴史的に見ると、不連続的差異論のメディア界の知性と現象界の知性の両方を意味すると考えられるのである。おそらく、両者の混同があるのではないだろうか。これは、ヨーロッパ文化を考える上で、極めて重要なポイントだろう。西欧において、ヨハネ福音書のロゴスが言葉と訳されたのである。前者のロゴスは、メディア界の知性であり、言葉とは、現象界の知性だろう。
 そして、toxandria氏が慧眼に触れている「イエズス会 派の神学者(サマランカ学派)たち」は、受胎告知をメディア界の知性ではなくて、現象界の知性=現象界の同一性(資本主義の同一性)の意味に取ったのではないだろうか。イエズス会の問題があるのである。しかし、より広く見ると、近代主義の問題である。近代主義は、差異と同一性の矛盾・混沌の運動なのである。だから、受胎告知の知性を現象界の同一性の知性と取ることは考えられるのである。不連続的差異論的に言えば、受胎告知は、メディア/現象境界の両面(メディア界と現象界)を意味することになってしまったと思われるのである。これは、イタリア・ルネサンスの問題に通じると思うのである。とりあえず、今は、ここで留めたい。
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アレゴリーとシンボルの問題

本件の問題で、メディア界知性(差異)と現象界知性(同一性)を区別したが、近代主義は、これを混同している、ないし、未分化であると言えるのではないだろうか。メディア界と現象界との未分化という近代主義の事態、これは、また、アイロニカルな没入に関係するし、また、ドゥルーズの差異哲学の差異=微分の問題に関係すると思われる。
 繰り返しになるが、不連続的差異論は、不連続的差異を提起したことで、この未分化的事態を、解消したと考えられるのである。
 ここでは、文学や芸術のアレゴリーとシンボルの問題に少し言及したい。ベンヤンミンの批評によって、前者が今日、評価されている傾向にある。しかし、アレゴリーとは、簡単に、観念・概念の形象化であり、シンボルのように、感性・心身性の形象化ではない。私が問題にしたいのは、観念・概念である。単に言語観念・言語概念ならば、同一性の観念・概念(知性)である。つまり、現象界的知性である。ということは、アレゴリーは、注意しないと、現象界の知性に堕すると言えるだろう。即ち、言語観念・言語概念=現象界知性によるアレゴリーとなるということである。これは、イマジネーション(メディア界)のあるアレゴリーではない。つまり、視覚的イマジネーションの死がここに生起するのである。換言すると、現象界がメディア界を滅ぼすのである。どうも、アレゴリーの評価は、このような近代主義と平行しているのではないだろうか。
renshi (2006-06-04 11:45:58)