半田氏の「三つの無意識機械」に関して

半田広宣氏の「三つの無意識機械(1)」に関して


半田氏の言葉を《  》で括る。


ドゥルーズも言ってましたが、無意識の構造は地層を持ち、多層化しているように思います。一神教の発明が「オイディプス化」の意ですが、おそらく近代自我の形成はこのオイディプス化におけるヌーメン(神霊)の力が、さらなる下部に独自の生殖領域を作り出すことによって出現してくる第三の無意識回路の生産物ではないかと考えています。ドゥルーズの言葉で言えば、末端性器、つまり資本主義機械ですね。》

この言葉は、暗示的である。「独自の生殖領域」・・・「第三の無意識回路」=「資本主義機械」。
 一神教の形成、これは、旧約聖書のモーゼと神との関係を、不連続的差異論の図式に置くと、メディア/現象境界(MP境界)になると考えられる。「ヌーメン(神霊)の力」とは、この境界におけるメディア界の力であろう。即ち、母権・女神神話の力である。(だから、旧約聖書の神は、ヤハウェとエローヒーム【神々】なのだろう。つまり、メディア界の力がエローヒームであり、現象的同一性がヤハウェなのだろう。)
 「独自の生殖領域」とは何だろうか。本来の生殖領域は、メディア界の差異共振性にあると思う。母権的なものである。イシス・オシリス的な共振結合である。(因みに、まったく誤解されたD.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の性交とは、このメディア界的共振結合を表現しているのである。ロレンスは、真正なメディア界的生殖関係を表現しているのである。『死んだ男』の暗い宇宙の薔薇とは、このメディア界宇宙・コスモスの表現と考えられる。)これが、近代自我の形成において、変質すると考えられる。「独自の生殖領域」とは、メディア/現象境界におけるメディア界と現象界との接点ではないだろうか。即ち、差異と同一性との接点ないし接合点である。共振差異「性交」が、同一性的二項対立的「性交」(暴力的な性交:例えば、バタイユの冒瀆としての性交)に転換した事態を意味しているのではないだろうか。同一性(父権制)が、差異(母権制)を支配する領域が、「独自の生殖領域」だろう。共振差異を否定する暴力的同一性の生殖である。火星(マルス、軍神)ないし白羊宮的と言えるのではないだろうか。【イエス・キリストは、双魚宮である。「愛」とは、差異の共振性、即ち、ゼロ度の差異共感性のことだろう。イエス・キリストは、正に、中間なのだ。父権制母権制の中間である。現象界からメディア界回帰(一つの永遠回帰聖霊主義)への過程であろう。そう、ロレンスは、「愛」という言葉を避けて、「やさしさ」と表現したのである。】
 もう少し、精緻に見ると、差異共振性という母権的性交に対して、同一性が否定・暴力的に介入する。差異共振性への同一性暴力、即ち、「サディズム」生殖領域がここに発生しているだろう。(因みに、「マゾヒズム」とは、同一性暴力を受ける差異共振性の側、母権制の側であろう。ここで、ドゥルーズが「サディズム」に対して、「マゾヒズム」を肯定評価していたことを想起する。)この「サディズム」生殖領域=「独自の生殖領域」を、近代自我はもつのである。そして、これが、「末端性器」=「資本主義機械」ということになる。つまり、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械である。これが、半田氏の叙述の説明になるだろう。
 また、ここで、toxandria氏が「ヴァルカノス」=小泉政権論を説いていることを想起する。小泉「ファシズム」政権は、正に、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械(=「新自由主義」)的であると考えられる。私は、先に、小泉政治弁証法構造主義として、メディア/現象境界に位置づけていたが、以上の論考から、小泉政治弁証法構造主義は、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械と一致するのである。

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半田氏の「三つの無意識機械(2)」に関して

《■三つの無意識機械(2)

今のところ、次のような方向性で考えています。

第一機械/原始土地機械………C^2(前後に虚軸/前後のみ二本)
第二機械/専制君主機械………C^3(左右に虚軸)
第三機械/資本主義機械………C^4(上下に虚軸)

 これはゲージ対称性の拡張にともなう次元進展に同じですが、ヌース理論では虚軸が持った直交性とは「観察」と考えます。イデアは複素n次元多様体の中でこうした直交変換を重ねていくことによって、無意識の観察の進展を推し量っているのではないかと思います。ペンローズも指摘していたように、おそらく、無意識構造は極めてアルゴリズム的なんですね。骨格は極めてシンプルなものではないでしょうか。》

ここの記述から、半田氏が、何故、この論考をODA ウォッチャーズ氏に差し向けているかがわかるだろう。思うに、虚軸の問題なのである。ODA ウォッチャーズ氏は、虚軸として、i,j,kを提示しているのである。つまり、実軸とijkによるメディア界四次元を提示しているのである。半田氏は、これに沿って、この論考を展開していると思うのである。これは、直観的にとても明快な記述である。物理学や数学の素人である私にも、きわめてわかりやすいのである。そう、半田氏が述べているように、シンプルな内容なのである。これは、すばらしい記述だと思う。

《C^3の虚軸(視線)は左右から介入してきますが、C^4の虚軸は上下に貫かれるように降りてくることになります。発生論的に言えば、人間にとっての絶対的上下とは、宇宙空間と地球内部の方向に当たりますから、この無意識の視線によって、初めて地球が球体として対象化されることになります。これが近代パラダイムの骨格である地動説を誘因してきたのかもしれません。フーコーパノプティコンを例に出すまでもなく、近代コギトの中に潜むこの高見の塔に住まう巨人の目は常に、この上空からの視線を所持しています。》

ここの記述も実に興味深いものである。第二機械/専制君主機械ならば、常識的には、上下と思うかもしれないが、左右と半田氏は述べているのである。
 とまれ、ここは微妙な事柄である。直観的には、第二機械は、上下であり、第三機械は、左右である。しかし、確かに、「近代コギト」は、「上空からの視線を所持」していると考えられる。不連続的差異論から見ると、近代的自我の二項対立は、正に、上下観念である。だから、半田氏の説明と一致するだろう。では、第二機械/専制君主機械をどう考えるべきか。半田氏の記述に即せば、Z軸が左右になることになる。そして、第四の軸(仮に、F軸としよう。the Fourth軸である)が上下となる。
 ここで歴史的に考えてみると、封建制とは、上下ヒエラルキーではないだろう。西欧では、領主が群雄割拠したのであるし、日本でも、同様だろう。江戸時代は、徳川幕府が中心とは言え、分割統治であった。つまり、多元性である。横並びである。これを取りたい。半田氏の記述を肯定しよう。第二機械/専制君主は、左右の軸である。そして、近代が、上下を形成したのである。絶対主義は、近代の始まりと言える。これは、正に、上下ヒエラルキーである。日本においては、当然、明治天皇制近代である。


《しかし、この「帝国」的視線はC^5の登場によってまもなく勢力を無くしていくことになるのではないでしょうか。C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。》

まったく同感である。C^5は、メディア界回帰=ポスト・キリスト教聖霊主義である。確かに、ニーチェである。ニーチェ/ロレンスである。「始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まる」とは、正に、メディア界回帰である。聖霊発出である。日本で言えば、縄文回帰である。多神教への回帰である。母権神話への回帰である。イシス-オシリスキュベレー-アッティス、ヴィーナス-アドニース、イザナミ-イザナギの回帰である。簡単に言えば、自然回帰である。自然が、都市を包摂するのである。スピノザの時代でもあろう。
 ただし、偶然と必然の問題がある。これが今や大問題である。これは、また、ホワイトヘッドの「有機体」哲学の問題に関係するだろう。思うに、これは、イデア界の展開の問題であろう。イデア界の展開は、必然であろう。そして、メディア界は、極性の世界であり、差異の偶然の領域ではないだろうか。そして、現象界は、同一性の必然性の領域ではないだろうか。コップはコップである。しかしながら、現象界の同一性的必然性に対して、メディア界の差異偶然性が存するだろう。換言すると、必然性に偶然性が内在しているだろう。スピノザ哲学は、必然性の哲学と言われているが、それは、誤謬ではないだろうか。スピノザ哲学は、メディア界の哲学であるから、偶然性の哲学のはずである。心身平行論や能動的観念とは、必然性の思想ではなく、偶然性の思想と考えることができるだろう。つまり、スピノザ哲学は、偶然性→必然性の哲学と呼ぶべきだろう。

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半田氏の「三つの無意識機械(3,4)」について

>C^2=メディア界の複素平面から現象空間に転化するときに、虚軸(虚軸と実軸の対極性)が、無限から有限になり、単なる前後になると見ていいのでしょうか。

《対峙し合う自他の関係性が、○(視野空間)と・(他者の目)の双対(○・○・)から、○○(二つの視野空間の同一化)と・・(二組の目の同一化)へと乖離してしまうということだと思います。このへんは初期ラカンが用いたシェーマLの図式と同じです。象徴的同一化と想像的同一化の作用と解釈することができると思います。C^2で顕在化していた純粋強度の場としてのメディア界(これが不連続的差異の場だと思っているのですが……)は、これら両者の間に沈み込み、文字通り、メディア界として無意識の欲望回路となるのだと思います。対象aのことだと思います。黄金比的運動が起こっているところですね。》

ここの半田氏の応答も、明快であり、深い。象徴的同一化と想像的同一化とは、不連続的差異論では、メディア/現象境界に相当する。ラカンで言えば、現実界が、象徴界想像界の分離するのである。おそらく、象徴界想像界というペアで考えるべきなのだろう。現実界は、半田氏がいみじくも述べていたように、メディア界である。
 ところで、半田氏が、メディア界が不連続的差異の場ではないかと述べているが、その考えは、ODA ウォッチャーズ氏の考えと共通のものと思える。私自身は、不連続的差異の領域は、原理的には、イデア界と考えているのである。しかし、実質的には、不連続的差異の領域は、メディア界なのである。つまり、イデア界=デュナミスの発露としてのメディア界=エネルゲイアということなのである。だから、ODA ウォッチャーズ氏・半田氏の考えは実に慧眼なのである。思うに、イデア/メディア界と見るべきなのである。これが、プラトンイデア界の考え方と一致すると思うのである。プラトンイデア界やコーラとは、イデア/メディア界を指していると考えられる。
 また、半田氏が以前述べていた、潜在的差異と顕在的差異のことであるが、私は、初め勘違いしていたが、今やはっきりと了解できるのである。半田氏の言う潜在的差異とはイデア界のことであり、顕在的差異とはメディア界のことなのである。
 
《上に挙げた群SU(2)はパウリ行列で表現することができますが、4次元空間を虚時間と見て、虚時間を実時間に符号を換えると、SU(2)はローレンツ変換群にかわります。時間t→虚時間itはウィック変換と呼ばれていますが、おもしろいことに、あのホーキングが「無境界仮説」の中で、特異点を解消するために使用したトリッキーな数学的技法です。宇宙の始まりの前には虚時間宇宙があった。。これが実は原始土地機械なんでしょう。》

この箇所は、少々難解であるが、虚時間→実時間は、メディア/現象境界の領域の事象と見ることができると思う。正に、ローレンツ変換であろう。

「三つの無意識機械(2)」で、次のように半田氏は述べている。

《C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。》

ヌース理論と不連続的差異論は、私が最初思っていた以上に、同一の理論なのである。ヌース理論の方が、不連続的差異論よりは、成立は早いが、しかし、両者、相互補完的に見た方が、建設的だろう。つまり、ヌース理論は、不連続的差異論のメディア界の「物理学」を独創先端的に展開しているのに対して、不連続的差異論は、哲学・数学的に、ヌース理論を包摂するようにして、全体理論を表現しているのである。以前にも述べたが、不連続的差異論的ヌース理論、あるいは、不連続的差異論/ヌース理論が考えられるのである。