V.ウルフの『灯台へ』の哲学分析:二つの「モダニズム」:過剰近代

sophiologist2006-06-18


V.ウルフの『灯台へ』の哲学分析:二つの「モダニズム」:過剰近代と内超近代



灯台へ』(1927年)ヴァージニア・ウルフ作 岩波文庫



灯台へ 岩波文庫
ヴァージニア ウルフ (著), Virginia Woolf (原著), 御輿 哲也 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003229118/qid=1150631122/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-0226866-3012711



表現方法:文学史的には、「意識の流れ」と呼ばれる表現方法である。より、的確に言えば、人物意識「対位法/ポリフォニー」と言うべきものである。
例えば、p.52〜p.54

【哲学的には、推察するに、ヴァージニア・ウルフの意識には、言うならば、コスモス(コスモス体)が息衝(いきづ)いて、そこにおいて、登場人物が「差異」としてありつつ、他の登場人物である「差異」と共振している様相のように思えるのである。登場人物1を差異1、登場人物2を差異2、登場人物nを差異nとすると、例えば、差異1→差異2へと、流動的に、あるいは、内在的(内部意識的)に移動するのである。それまでの、小説は、語り手や主人公の視点・感覚意識(以下、感識と略す)が中心となって、物語が展開することが普通であったが、この小説作品では、視点・感識が、差異から差異へと共振的に移行するのである。これは、音楽の対位法/ポリフォニーに類似していると言えるだろう。差異を声部として、ある声部から他の声部へと展開するのである。あるテーマをもっているから、フーガに似ていないこともないだろう。
 とまれ、作家の創造的意識・感識において、多数の登場人物=差異が共振していて、差異でありつつ、内的に「連通」していると考えられるのである。この差異と差異の共振過程が、対位法/ポリフォニー又はフーガに似ているのである。ここで注意すべき点は、これは、コラージュやパスティーシュに一見似ているが、似て非なるものである。何故なら、それらは、差異が不連続のままで、差異間において、共振していないからである。つまり、いわば、窓のないモナドのように、差異と差異とが、孤立して並立しているのであるから。それに対して、ヴァージニア・ウルフの小説時空間(タイム・スペース)においては、差異は他の差異と共振しているのであり、窓があるのである。差異が他者である差異と共振して、「連通」しているのである。この違いは、絶対的であり、十分注意する必要があるだろう。モナドではなくて、共振差異が生成する多元・多様な共振界がここにはあるのである。
 これは、思うに、画期的に独創的な作品ではないだろうか。「意識の流れ」とは、プルーストジョイスの小説において、確認された「モダニズム」小説の主要な表現方法の一つであるが、しかし、思うに、それらにおいて、差異は共振せずに、孤立(モナド化)しているように思えるのである。だから、「意識の流れ」は、二種類考えられるのである。モナド的「意識の流れ」と共振差異的「意識の流れ」である。
 この共振差異は、最初に述べたように、コスモスに息衝いていると考えられるのである。だから、作家ヴァージニア・ウルフの意識・感識には、ミクロ・コスモスがあり、そこには、多元的な共振差異が息衝いていると換言できるだろう。この共振差異を量子論量子力学)の用語を借りて、パーティクル(素粒子)と呼ぼう。即ち、ヴァージニア・ウルフの作品世界は、パーティクル(素粒子)の共振する世界であるということである。プルーストジョイスの小説世界はモナドの世界であると言えるのではないだろうか(追記参照)。
 パーティクルの世界、共振差異の世界は、シナジーや「連創」の世界である。シンパーティクル(SYNPARTICLE)・共素粒子・共差異の世界でもある。さらに、造語して、共粒子・連粒子・共連粒子の世界とも言えるだろう。
 さて、このパーティクル・共差異の世界であるが、「モダニズム」期において、ヴァージニア・ウルフ以外に、D.H.ロレンスの作品・テキストに存しているのである。ただし、思想的に表現されている傾向が強いと言えるだろう。しかしながら、小説作品においては、パーティクル・共差異は、コスモス的な場の力になっているように思えるのである。ロレンスの作品のもつ何か異様な臨場感の喚起力に、パーティクル・共差異が変換しているように思えるのである。
 とまれ、思想的表現として、ロレンスの紀行文の『エトルリアの地場(遺跡)』におけるタルクィニアの墓の壁画においてロレンスが発見した「触れ合い」感a sense of touchに、このパーティクル・共差異のコスモスを、典型的に見出すことができるだろう。
 さて、終わりに、「モダニズム」を再定義する必要がある。モナド的「モダニズム」と共差異的「モダニズム」である。前者をハイパー・モダン(過剰近代)、そして、後者をイマネント・トランス・モダン(内在超越近代、略して、内超近代、内越近代)と呼べよう(ポスト・モダンの用語は混乱していて、語弊があるので、避ける)。これまで、ハイパー・モダン(過剰近代)が主流になって、イマネント・トランス・モダン(内超近代)が傍流であったのである。
 このように見るならば、現代、どちらが、未来的で、どちらが反動的であるかは、瞭然である。ハイパー・モダンは、いわば、高度近代主義であったのである。それは、現代の状況の先駆けであったと言えよう。そして、ポスト・ハイパー・モダンとして、イマネント・トランス・モダンを評価する必然性があると言えるだろう。ここで、イマネント・トランス・モダンの哲学の集大成を試みたフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが、ヴァージニア・ウルフD.H.ロレンスを積極的に評価していること、そして、ジョイスやT.S.エリオットやエズラ・パウンドにはほとんど言及していないこと(エリオットに関しては皆無だろう)を想起すべきだろう。(ただし、プルーストは、高く評価していた。プルーストに関しては、微妙なところがあり、私見では、ハイパー・モダンとイマネント・トランス・モダンの中間態のように思えるのである。だから、先の評価を少し修正しないといけない。)】


p.s. 過剰近代(モナド的「モダニズム」)と内超近代(共差異的「モダニズム」)は、出発点において、似ている面がある。それは、神話を創作に活用する点である。T.S.エリオットの『荒地』やジョイスの『ユリシーズ』における神話の活用は、有名である。また、D.H.ロレンスは、彼ら以上に、神話を活用した。ウルフは、それほどでもないが、神話を見ることはできるだろう。
 この問題は、以前言及した、弁証法構造主義と対極性構造主義の区別に関わると考えられる。即ち、過剰近代は前者に、内超近代は後者に関わると考えられる。だから、両者の出発点は、メディア界と現象界の境界、メディア/現象境界である。しかしながら、方向性が正反対なのである。過剰近代は、差異を取り込むような形態をとるが、現象界・同一性を志向するのであり、内超近代は、同一性から差異へと志向するのである。因みに、toxandoria氏の、本稿へのコメントを敷延すると、小泉内閣の「改革」は、過剰近代であり、小沢一郎氏の「変革」は、内超近代である。
 ということで、ハイパー・モダンとイマネント・トランス・モダンの共通性と異質性の説明を終えたこととしよう。


p.p.s. ここで、ハイパー・モダンの形成の原因を考えたい。これは、イマネント・トランス・モダンと、言わば、双子であろう。なぜならば、モダンが、成熟し、高度化すると、当然、反転するからである。過剰になると、当然、反対の極にもどる力学が作用すると考えられるのである。即ち、モダンは、中世的メディア界を否定して、生まれた個物の世界である。しかし、近世においては、まだ、メディア界の差異が息衝いていた、ルネサンスのように。しかし、近代が深まるにつれて(プロテスタンティズム化)、差異を喪失し、同一性化が強化される。しかし、さらに近代が進展すると、近代の極限に達して、力やエネルギーが反転すると考えられるのである。この反転する領域が、メディア界と現象界の境界、メディア/現象境界である。そして、ここでは、メディア界=差異へと進展する方向性が、積極的であり、現象界=同一性へと、言わば、後戻りする方向性は、反動的である。この二つの正反対の方向性が、二つの「モダニズム」になったと考えられるのである。
 では、過剰近代が、モナド的「モダニズム」になったことを、どう説明できるだろうか。それは、正に、弁証法構造主義で説明できるだろう。ここでは、差異は同一性によって統一(ジンテーゼ)されるのである。「正」としての自我同一性があり、「反」としての差異や他者があり、それをさらに否定して、統一的自我の「合」が成立するのである。この統一的自我とは、いわば、絶対的自我であり、差異を否定し尽くした同一性であるから、窓がない近代自我、即ち、モナドなのである。言わば、モナド自我である。おそらく、これは、コギト・エルゴ・スムから、スムを排除したコギトであろう。だから、ハイパー・モダンの場合、近代自我=モナド=コギトなのである。
 以上のように考えると、モナド的「モダニズム」と共差異的「モダニズム」のコントラストが明確・明解になる。同じ「モダニズム」であるが、似て非なるものである。また、換言すると、前者は、いわゆる、構造主義であるのに対して、後者は、トランス構造主義である。
 最後に、この視点から現代社会・世界がよく判別できるだろう。小泉「改革」とは、toxandoria氏のコメントから示唆されるように、モナド的同一性幻想・妄想・詐術なのである。みんな、ばらばらなのである。そして、モナド的同一性である貨幣(マモン)=金融資本中心主義が、違法に、支配するのである。ライブドア村上ファンド、日銀・福井総裁、等々である。新自由主義は、モナド的同一性「モダニズム」である。マヤカシである。
 そして、小沢一郎氏の共生主義とは、正に、共差異的「モダニズム」、即ち、イマネント・トランス・モダンの《政治理念》である。


3p.s. プルーストであるが、本文で、モナド的「モダニズム」と述べたのは、行き過ぎであったので、ここでお詫び申し上げると同時に訂正したい。
 やはり、プルーストは、推察するに、中間態と見るのがいいと思うのである。確かに共振しているのである。だからこそ、紅茶にひたしたお菓子マドレーヌの味覚や香りが、潜在意識を刺激して、浮上させるのである。しかしながら、他方、登場人物は、ウルフのようには、共振してはいないと思うのである。モナドのような殻があると思うのである。そう、あの長々しい文が、一種モナド的でもあろう。後で、できたら、再考したい。


4p.s. 書くのを忘れたが、メディア界と現象界の境界、メディア/現象境界の問題は、toxandoria氏のブログで問題提起された受胎告知の問題と重なると考えられる。また、イエズス会の問題もここに関わるだろう。両義・両面的なのである。悪魔と天使の顔をもっているのである。そう、ジキル博士とハイド氏と言ってもいいだろう。
 ここでも、イエス・キリスト問題が生じている。D.H.ロレンスが問題にしたものでもある。神の子を、唯一とするのか、複数とするのかである。正統キリスト教グノーシス主義の問題でもある。また、シュタイナーの霊学の問題でもある。これについては、別稿で、再論してみたいが、ここで、簡単に述べると、神を、メディア界=コスモス叡知体とするならば、これは、理論的には、森羅万象に超越論的に内在しているものである。これをはっきりと自覚した存在・覚知者として、イエス・キリストが考えられるだろう。シュタイナーは、キリスト霊を言い、それを太陽霊と述べていた。これに関して、私は違和感が感じるのである。ロレンスのように、復活したオシリスとした方が明解だと思うのである。これは、端的に言えば、メディア界コスモスの復活のことではないだろうか。イシスとオシリスの対極性(陰陽)であるメディア界コスモスの意識化のことではないだろうか。イシスとは、差異の多様体であり、オシリスとは、差異共振における光ではないだろうか。イシスが闇であり、オシリスが光である。そして、闇が基盤であり、その上に光が浮かび上がるのではないだろうか。闇の一部としての光である。これは、逆ではないだろう。闇のコスモス、暗いコスモス、玄牝が基盤・背景であり、そこから、光・太陽が浮かび上がるのではないか。ロレンスが言った黒い太陽である。
 また、思うに、ダークエネルギー問題であるが、E=mc^2に問題があるのではないだろうか。光速は、現象界の時空間の単位ではないだろうか。メディア界において、「光」は、いわば、無限速度ではないのか。もっとも、メディア界においては、現象界の時空間の尺度が適用されないのであるが。ドゥルーズガタリが、『哲学とは何か』で、内在平面において、概念?が無限速度で、移動するようなことを述べていなかっただろうか。概念とは、差異ないし共振差異であろう。ひょっとして、ダークエネルギー問題は、悪い問いかもしれない。現象界の尺度を当てはめているのではないだろうか。ある、言わば、虚エネルギーが、現象化して、エネルギーや力になっているのではないだろうか。少なくとも、複素数エネルギーが、根源ではないだろうか。