コナトゥス・シナジー共生体エコノミーへ:シュタイナーの悪魔/キリ


コナトゥス・シナジー共生体エコノミーへ:シュタイナーの悪魔/キリスト論とプラトンシナジー理論


後で、詳しく検討することにして、今簡単に触れると、人智学のシュタイナーの悪魔/キリスト論は、二人の悪魔であるルシファーとアーリマンのバランスを取る力として、キリストを置くものである。私は、先に、単独自我ー心身自我ー同一性自我の三元論を述べたが、これは、ルシファー/キリスト/アーリマンに対応するのではと思ったのである。これは、不連続的差異論では、イデア界/メディア界/現象界となるだろう。また、先に、コナトゥスとシナジーのことに言及したが、KAISETSU氏の考えを借りると、コナトゥスをルシファー・イデア界・単独自我・特異性・力の意志と置けるのではないだろうか。
 しかし、先に、私は、コナトゥスをメディア/現象界の境界面においたが、それをどう考えるのか。ここで、思うに、私は、現象界の個体を特異性と、いつも、考えているのであるが、この個体的特異性が、コナトゥスに関係するのではないだろうか。ニーチェの力の意志である。単独自我である。自我を多層と考えると、単独層・心身層・同一性層の多層をもつ自我があるのである。心身層(メディア界)においても、根底には、単独層が基底として、潜在していると見るべきと思うのである。そして、同一性層においては、心身層があり、その下に、単独層があると思うのである(深層心理に似ている)。だから、先に、メディア界と現象界の境界に置いたコナトゥスは、同一性自我だけに関係するのではないと考えられるのではないだろうか。半田広宣氏が、バロック的自我(?)に関して述べていたことを想起しつつ、考察すると、広義において、メディア界と現象界の境界で発生するコナトゥスとは、同一性が差異を否定・排除するのであるが、否定・排除の反動性が、裏返しの、反転した差異(心身差異、共振差異)であるのである。そして、当然、根源の単独自我のコナトゥス性を、反転において、含むだろう。
 そのように考えられるならば、先に、メディア界と現象界の境界面にコナトゥスを置いたことは、不整合ではないと言えよう。とまれ、後で、整理することとして、


コナトゥス/シナジー/エゴイズム


という図式が成立するのではないだろうか。そして、今や、近代主義=資本主義エゴイズムから、シナジー共生体エコノミーへと「コペルニクス的転回」を為そうとする相転移のエポックではないだろうか。自由即必然である。分かりやすく図式化すれば、


中世→近代:
シナジー(心身自我)→エゴイズム(同一性自我)


近代→内超近代;
エゴイズム(同一性自我)→コナトゥス的シナジー(単独的シナジー自我)


そして、内超近代(IMMANENT TRANSMODERN:略して、INTRANS-MODEARN、イントランス・モダンと呼ぼう)は、コナトゥス的シナジー共生体エコノミーの経済体になると思うのである。半田氏の言葉を使用すれば、顕在的イデアの共生体エコノミー(エコノコスモス)である。