ヌース理論と新プラトン・シナジー理論から、四次元空間を考察する


ヌース理論と新プラトンシナジー理論から、四次元空間を考察する


ヌース理論の提唱者である半田広宣氏は、今、新著の執筆中ということで、完成が待ち遠しいが、私としては、ヌース理論のコスモス幾何学論を、私なりに、知りたいという欲求がある。
 今、不連続的差異論で言うメディア界の《空間》、プラトンシナジー・セオリーでは、おそらく、シナジー界と言える《空間》を、私なりに、ささやかながら、イメージしてみたい。
 先ず、それは、対極性時空間である。太極図を想起されるといいだろう。KAISETSU氏は、鈴木大拙即非の考え方を述べている。即ち、A=非Aということである。換言すると、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。とまれ、この領域は、不連続的差異・絶対的差異の共振する場である。量子論の世界である。ここでは、現象界の時空間の概念が通用しない。ここでは、非局所性が機能しているだろう。「ここ」と「あそこ」が一致するだろう。また、「今」は、「過去」であり、「未来」であろう。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』のような逆さまが成立する世界と考えられる。そして、「わたし」は、「あなた」と「彼女」と、自然と、その他の、一致するだろう。D.H.ロレンスが説くコスモスである。あるいは、梵我一如である。主客合一である。日本(正しくは、東アジア)で言えば、縄文カルチャーである。半田氏は、球面であると説いていたと思う。三次元の球面だったと思うが。これは、直観でわかる。
 ここで、思考実験をしてみたい。実軸に対して、三つの虚軸を考えて、四次元とするのが、これまでの、KAISETSU氏の考えである。これには異論はない。そして、実軸に、虚エネルギー、ないし虚力があると仮定しよう。そして、三つの1/4回転(i, j, k)によって、直交三次元空間が生じるとしよう。これは、不連続的差異論の《メディア界》である。メディア空間と呼べる。ここは、奇妙な空間である。相対的空間である。例えば、y1とy2の関係は、y1=y2であったり、y1≠y2である。伸縮自在のような空間である。かつて、KAISETSU氏が述べたように、『不思議の国のアリス』のアリスのように、大きくなったり、小さくなったりする空間である。ありは、半田広宣氏の考えを借りれば、トポロジー空間となるのだろう。量子力学空間である。
 そして、このメディア空間、量子・素粒子空間が、必然的に現象化するのであるが、それは、ゼロ度から無化である。差異の無化=同一性化である。これは、連続・同一性化と言える。ここで、メディア空間=量子空間の極性的ゆらぎ、振り子的往復性等が、消去されるのである。これをどう把捉すべきなのだろうか。メビウスの帯(環)を、切断するような事象がここにはあるのだろう。切断するのは、同一性である。それが、差異と差異との共振を切断すると考えられるのである。そして、同一性とは、思うに、光速度である。これが、差異共振性を切断して、メディア空間を、現象空間に転換するのではないのか。トポロジカルな三次元メディア空間から、ソリッドな三次元現象空間が派生するのだろう。
 ここで、時間について言うと、実軸の虚力・虚エネルギーが、虚軸においては、いわば、虚時間となるのではないだろうか。だから、そう、メディア空間は、四次元虚時空間であろう。そして、これが、四次元時空間として、現象(仮象)化すると考えられるだろう。この四次元時空間は、正に、幻像であろう。光速度の同一性が、虚構する仮象界であろう。正に、 PHENOMENAである。同一性の光が、この四次元時空間の仮象を構築していると考えられるのである。しかし、この同一性の光とは、単に外縁・周縁・外壁等ではないだろうか。つまり、メディア界・メディア虚時空間にある《光》の外縁・周縁・外壁等ではないかと思われるのである。というのは、メディア界・メディア虚時空間では、差異がゼロ度共振をしているのであり、このゼロ度共振が波動であると考えられるのであり、これが、メディア界の《光》と考えられるのである。つまり、ここにあるのは、無限速度の《光》である。共振差異の《光》である。これは、ドゥルーズガタリが『哲学とは何か』で述べていた内在平面における無限速度に通じると思われるのである。言い換えれば、超光である。即ち、メディア界・メディア虚時空間において、超光が無限速度で進行するのであり、それが、差異の無化において、同一性の光に変換されると思われるのである。即ち、超光から光への変換である。これが、外縁・周縁・外壁等の意味である。ここで、何度も言及するが、D.H.ロレンスの言う黒い太陽dark sunと背面を見せている光という考えを想起する。つまり、メディア界の《光》が、いわば、裏返しになって、現象界の白光となっていると言えるのではないだろうか。(因みに、シュタイナーが言った太陽霊としてのキリスト霊とは、メディア界の《光》のことではないだろうか。)
 ここで、喩えて言えば、球の裏面が表面になるようなことではないだろうか。つまり、本来のメディア界=球は、無限速度の超光の世界であるが、それが、差異の無化によって、反転して、本来裏面であった同一性が、表面・表層になったのではないだろうか。整理すると、本来のメディア界(メディア球と言おうか)において、表面は、超光が無限速度で走行しているが、差異の無化によって発生する同一性の光が前面(表面)化して、本来の表面の超光を覆ってしまうのではないだろうか。つまり、メディア界=超光の世界が隠蔽化されるのである。これが、ロレンスの言う《光》(=黒い太陽)が、背を向けた様相であろう。
 そして、この同一性の光に規定されて現象界において、近代科学の唯物論的世界観が発生すると言えよう。つまり、虚軸が、同一性の光/光速度によって、実軸化されるということではないだろうか。無限が有限化されるとも言えるのではないだろうか。この同一性の光によって実軸化された時空四次元の「現象界」は、正に、仮構・幻像の世界なのである。この唯物論的世界観、アーリマン的世界観(正しくは、ルシファー/アーリマン的世界観、又は、コナトゥス/エゴイズム世界観)が、本来の実相であるメディア界・メディア虚時空間を否定・排除・隠蔽して、人間・地球を破壊しているのである。
 これは、どういうことなのだろうか。現象界的唯物論的世界観は、世界を破壊させるのだろうか。人類を破滅させるのだろうか。ここでは、示唆するに留めるが、イデア界=ガウス平面における回転は、1/4回転を4回することで、元の実軸に回帰するのである。3/4回転から4/4回転によって、不連続的差異=絶対的差異への回帰が発生して、現象界の連続・同一性を解体すると考えられるのである。即ち、現象界という壁が破壊されて、メディア空間・メディア虚時空間が、出現すると思うのである。ここでは、ルドルフ・シュタイナーD.H.ロレンスは一致するのである。太陽霊・キリスト霊、黒い太陽が、出現するのである。コスモスの復活である。