D.H.ロレンスにおける特異性-コスモス性-近代自我(父権自我):

D.H.ロレンスにおける特異性-コスモス性-近代自我(父権自我):全体主義ファシズム


先の考察は、少し論がぶれていたので、ここで、新たに論考したい。
 問題は、ファシズムの哲学分析である。思うに、ファシズムの内因は、メディア/現象境界の弁証法構造にあるだろう。これが、ハイパー・モダンにおける、なんらかの行き詰まりの社会的状況において、ファシズムを発生させると考えられる。20世紀前半において、第一世界大戦後の、ハイパー・モダンの資本主義の状況が、ファシズムを発生させたと言えようし、現代日本においても、小泉政権において、マスメディア的ファシズムが形成されたと私は考えている。
 では、ファシズムとコスモスはどう関係するだろうか。あるいは、有機体論と。ここは、微妙な問題である。20世紀前半のファシズムは、明らかに、コスモス性と関係をもっていたと考えられる。わかりやすく言えば、現代ロマン主義である。これは、アカデミズムでは、表現主義と呼ばれているが。そう、小泉ファシズムと本来のファシズムの違いは、ここにあるだろう。おそらく、訂正する意味で、小泉政治は、小泉全体主義と言うのが正確のように思える。すると、上記のファシズムの内因の定義を訂正しないといけない。思うに、メディア/現象境界における弁証法構造は、全体主義の内因である。そして、ファシズムは、これにコスモス・ロマン主義有機体論が含まれると見るべきだろう。
 整理すると、全体主義ファシズムの内因の共通性は、メディア/現象境界の弁証法構造である。しかし、ファシズムの場合、コスモス・ロマン主義有機体論が強く作用していると言えよう。これは、戦前・戦中の日本のファシズムでもそうだろう。
 このような再定義に基づいて、D.H.ロレンスファシズムの問題を考えよう。
 ロレンスには、特異性(イデア界)/コスモス性(メディア界)/近代自我性(現象界)の三元性があった。しかし、コスモス性と近代自我が未分化であったと考えられる。換言すると、メディア/現象境界において、境界上の未分化的混沌があったと言えよう。即ち、弁証法構造と対極性構造の二つの構造が未分化であったのである。簡単に言えば、メディア界と現象界が未分化混沌の状態にあったのである。これは、一見、全体主義の構造と変わらないように見えるが、そうではない。全体主義は、その境界における弁証法構造をもっているのであり、対極性構造はもっていないと考えられる。
 この境界上の未分化混沌のため、ロレンスは、一時期、ファシズムに傾いたのである。しかし、ロレンスは、特異性をもっていたために、特異性が開花して、ファシズム的傾向を廃棄して、真正のコスモス=メディア界を形成することができたのである。そして、『黙示録論(アポカリプス論)』において、コスモスとの一体性を説くことになったと考えられるのである。だから、晩年のロレンスのコスモスや有機体論を、ファシズム的と見るのは完全に誤謬である。ロレンスは、ニーチェを発展的に継承した、不連続的差異論の先駆者であったと考えられるのである。そう、この点で、ジル・ドゥルーズより、進んでいたと考えられるのである。ドゥルーズの差異論の問題点の解決が不連続的差異論の誕生・創造であったが、ここで、簡単に問題点を見ると、差異=微分で、連続体になっているのである。これは、不連続的差異の共振性と異なるのである。つまり、ドゥルーズは連続的差異=微分からの現象化を考えているのであり、これは、結局、同一性を形成しているのである。つまり、これは、差異を種に換えることであろう。つまり、種としての差異であり、個・特異性が消えているのである(もっとも、他方では、ドゥルーズは、ニーチェの特異性を肯定しているのであるが)。いわば、種の論理が、ドゥルーズ哲学にはあるのであり、これは、通俗のイデア性である。あるいは、観念形態である。つまり、言語観念である。結局、ドゥルーズは、連続的差異=微分を基礎にすることで、現象界を肯定しているのである。これは、ベルグソンハイデガー路線である。だから、ファシズム路線である。つまり、連続的差異=微分という考えが、種・類型・「イデア」なのである。これが、ファシズムにつながるのである。これを整理すると、連続的差異とは、実は、メディア/現象境界における同一性を不連続的差異の共振に当てはめたものと考えられるだろう。つまり、これは、虚偽の一種である。ということで、ドゥルーズ哲学は、実に危険な側面をもっていると言えよう。ファシズムにつながるのである。
 ここで、敷延して、「霊」の問題を考えると、正に、ドゥルーズ哲学の問題と関係するのである。つまり、「霊」とは、以前の言ったが、不連続的差異の共振を、同一性の観点から捉えたものと考えられるのである。「霊」は、差異に同一性の枠を与えたものであり、現象化の一部なのである。「霊」は、存在しないものである。それは、現象界的錯誤である。「霊」や「スピリット」ではなく、不連続的差異の共振様相があるだけである。これが、個体のイデア多様体である。
 さて、さらに問題を展開すると、このイデア多様体を構成しているものは何だろうか。これは、簡単に言えば、メディア界四次元性であろう。これが、イデア多様体を構成しているのだろう。そう、コスモス多様体の構成としてのメディア界四次元である。これが、いわば、存在の根源構成要素なのだろう。不連続的差異が、1/4回転を反復して、メディア界四次元を構成するのである。そして、これが、コスモス多様体を発生させるのだろう。そして、これは、コスモス叡知体と考えられる。そして、存在は、これの反映・反照なのだろう。コスモス叡知体としての人間であり、自然であり、地球であり、宇宙である。マクロコスモス=ミクロコスモスである。叡知学(ソフィア・グノーシス)である。カバラのアダム・カダモン(アダム・カドモン)=原人とは、コスモス叡知体のことだろう。これは、イシス・オシリスでもあろう。ここは、超光の世界であろう。阿弥陀如来の無量光の世界であろう。不連続的差異が媒体ではないだろか。イシスかもしれない。



D.H.ロレンスにおける特異性-コスモス性-近代自我(父権自我):全体主義ファシズム


先の考察は、少し論がぶれていたので、ここで、新たに論考したい。
 問題は、ファシズムの哲学分析である。思うに、ファシズムの内因は、メディア/現象境界の弁証法構造にあるだろう。これが、ハイパー・モダンにおける、なんらかの行き詰まりの社会的状況において、ファシズムを発生させると考えられる。20世紀前半において、第一世界大戦後の、ハイパー・モダンの資本主義の状況が、ファシズムを発生させたと言えようし、現代日本においても、小泉政権において、マスメディア的ファシズムが形成されたと私は考えている。
 では、ファシズムとコスモスはどう関係するだろうか。あるいは、有機体論と。ここは、微妙な問題である。20世紀前半のファシズムは、明らかに、コスモス性と関係をもっていたと考えられる。わかりやすく言えば、現代ロマン主義である。これは、アカデミズムでは、表現主義と呼ばれているが。そう、小泉ファシズムと本来のファシズムの違いは、ここにあるだろう。おそらく、訂正する意味で、小泉政治は、小泉全体主義と言うのが正確のように思える。すると、上記のファシズムの内因の定義を訂正しないといけない。思うに、メディア/現象境界における弁証法構造は、全体主義の内因である。そして、ファシズムは、これにコスモス・ロマン主義有機体論が含まれると見るべきだろう。
 整理すると、全体主義ファシズムの内因の共通性は、メディア/現象境界の弁証法構造である。しかし、ファシズムの場合、コスモス・ロマン主義有機体論が強く作用していると言えよう。これは、戦前・戦中の日本のファシズムでもそうだろう。
 このような再定義に基づいて、D.H.ロレンスファシズムの問題を考えよう。
 ロレンスには、特異性(イデア界)/コスモス性(メディア界)/近代自我性(現象界)の三元性があった。しかし、コスモス性と近代自我が未分化であったと考えられる。換言すると、メディア/現象境界において、境界上の未分化的混沌があったと言えよう。即ち、弁証法構造と対極性構造の二つの構造が未分化であったのである。簡単に言えば、メディア界と現象界が未分化混沌の状態にあったのである。これは、一見、全体主義の構造と変わらないように見えるが、そうではない。全体主義は、その境界における弁証法構造をもっているのであり、対極性構造はもっていないと考えられる。
 この境界上の未分化混沌のため、ロレンスは、一時期、ファシズムに傾いたのである。しかし、ロレンスは、特異性をもっていたために、特異性が開花して、ファシズム的傾向を廃棄して、真正のコスモス=メディア界を形成することができたのである。そして、『黙示録論(アポカリプス論)』において、コスモスとの一体性を説くことになったと考えられるのである。だから、晩年のロレンスのコスモスや有機体論を、ファシズム的と見るのは完全に誤謬である。ロレンスは、ニーチェを発展的に継承した、不連続的差異論の先駆者であったと考えられるのである。そう、この点で、ジル・ドゥルーズより、進んでいたと考えられるのである。ドゥルーズの差異論の問題点の解決が不連続的差異論の誕生・創造であったが、ここで、簡単に問題点を見ると、差異=微分で、連続体になっているのである。これは、不連続的差異の共振性と異なるのである。つまり、ドゥルーズは連続的差異=微分からの現象化を考えているのであり、これは、結局、同一性を形成しているのである。つまり、これは、差異を種に換えることであろう。つまり、種としての差異であり、個・特異性が消えているのである(もっとも、他方では、ドゥルーズは、ニーチェの特異性を肯定しているのであるが)。いわば、種の論理が、ドゥルーズ哲学にはあるのであり、これは、通俗のイデア性である。あるいは、観念形態である。つまり、言語観念である。結局、ドゥルーズは、連続的差異=微分を基礎にすることで、現象界を肯定しているのである。これは、ベルグソンハイデガー路線である。だから、ファシズム路線である。つまり、連続的差異=微分という考えが、種・類型・「イデア」なのである。これが、ファシズムにつながるのである。これを整理すると、連続的差異とは、実は、メディア/現象境界における同一性を不連続的差異の共振に当てはめたものと考えられるだろう。つまり、これは、虚偽の一種である。ということで、ドゥルーズ哲学は、実に危険な側面をもっていると言えよう。ファシズムにつながるのである。
 ここで、敷延して、「霊」の問題を考えると、正に、ドゥルーズ哲学の問題と関係するのである。つまり、「霊」とは、以前の言ったが、不連続的差異の共振を、同一性の観点から捉えたものと考えられるのである。「霊」は、差異に同一性の枠を与えたものであり、現象化の一部なのである。「霊」は、存在しないものである。それは、現象界的錯誤である。「霊」や「スピリット」ではなく、不連続的差異の共振様相があるだけである。これが、個体のイデア多様体である。
 さて、さらに問題を展開すると、このイデア多様体を構成しているものは何だろうか。これは、簡単に言えば、メディア界四次元性であろう。これが、イデア多様体を構成しているのだろう。そう、コスモス多様体の構成としてのメディア界四次元である。これが、いわば、存在の根源構成要素なのだろう。不連続的差異が、1/4回転を反復して、メディア界四次元を構成するのである。そして、これが、コスモス多様体を発生させるのだろう。そして、これは、コスモス叡知体と考えられる。そして、存在は、これの反映・反照なのだろう。コスモス叡知体としての人間であり、自然であり、地球であり、宇宙である。マクロコスモス=ミクロコスモスである。叡知学(ソフィア・グノーシス)である。カバラのアダム・カダモン(アダム・カドモン)=原人とは、コスモス叡知体のことだろう。これは、イシス・オシリスでもあろう。ここは、超光の世界であろう。阿弥陀如来の無量光の世界であろう。不連続的差異が媒体ではないだろか。イシスかもしれない。