ファシズムの哲学的分析:連続的差異と同一性自我の結合による弁証法

ファシズムの哲学的分析:連続的差異と同一性自我の結合による弁証法構造主義


ファシズムの十全な分析は、勿論、歴史、政治、経済、社会的分析を含めなくてはならないが、私の論点は、あくまで、精神的内因にあるので、哲学的分析をする意味があるだろう。さて、これまでの分析では、叙述がかなり不整合になったので、ここで、整理したい。
 先ず初めに、全体主義との関係を言うと、全体主義に、ファシズムは含まれる概念と考えられる。例えば、旧ソ連の体制は、社会主義全体主義と言えるだろうが、社会主義ファシズムとは言えないだろう。そして、ファシズムは、20世紀前半における欧米、日本他に見られた特異な全体主義と考えられよう。いちおう、このように考えておきたい。
 ファシズムとは、不連続的差異論/プラトンシナジー論に拠れば、メディア界と現象界の境界(メディア/現象境界)における弁証法構造主義の事象と言うことができる。このある特異な、特定の事象が、ファシズムである。それは、連続的差異(疑似連続的差異)と同一性自我との結合による、不連続的差異=他者の否定・排除による弁証法構造主義と言えるだろう。ポイントは、連続的差異と同一性自我との結合にある。これにより、明確に全体性が、そして、ヒエラルキーが明らかになるのである。
 連続的差異(疑似連続的差異)の問題であるが、それは、メディア/現象境界において、同一性化された共振する不連続的差異のことである。つまり、同一性の影響を受けた共振差異であると言えるだろう。この同一性化された共振差異が、ファシズム全体主義性を形成すると考えられるのである。それは、いわば、疑似コスモスを形成するのである。そう、疑似共同体、民族共同体の発想を生むと言えるだろう。ハイデガー存在論的差異とは、まさに、同一性化された共振差異であり、これが、ナチスの民族共同体に同化したと言えるだろう。日本の戦前・戦中の天皇ファシズムも、同一性化された共振差異である天皇ナショナリズムによって形成されたのではないだろうか。(石橋湛山は、不連続的差異・単独性をもっていた希有の日本人であったのだろう。)
 ここで、D.H.ロレンスドゥルーズについて、再論すると、ロレンスは、先に述べたように、一時、自身の同一性自我的弁証法構造によって、ファシズムに接近したが、晩年、不連続的差異性を深化させ、ファシズムへの志向を廃棄して、純正のメディア界=コスモスを開花(「暗い宇宙の薔薇」)させたのであり、不連続的差異論の先駆になったと言えよう。
 ドゥルーズであるが、繰り返す価値があるので反復するが、不連続的差異=特異性と連続的差異=微分を混同していて、直観していた前者を充分理論的に展開せずに、後者へと重ねてしまい、理論に大不整合をきたし、ベルクソンハイデガーファシズムの系譜に連なることに堕してしまったと言えよう。

p.s. 上記に、「それは、連続的差異(疑似連続的差異)と同一性自我との結合による、不連続的差異=他者の否定・排除による弁証法構造主義と言えるだろう。ポイントは、連続的差異と同一性自我との結合にある。これにより、明確に全体性が、そして、ヒエラルキーが明らかになるのである。」とあるが、「それ」は、ファシズムを指しているのであるが、この記述は、ファシズムというよりは、全体主義の定義ではないだろうか。だから、この論述は、「ファシズムの哲学的分析」というよりは、「全体主義の哲学的分析」と言うべきではないだろうか。
 しかしながら、今考えるに、確かに、ファシズム全体主義に広義に含まれるが、しかしながら、ファシズムには、全体主義にはない「特異性」があるように思える。どうも、定義の再訂正が必要なようである。わたしは、全体主義ファシズムが含まれると言ったが、逆ではないだろうか。ファシズム全体主義が含まれるのではないだろうか。問題は、スターリニズムである。それは、全体主義というよりは、ファシズムに含ませた方が的確なのではないだろうか。つまり、私が言いたいのは、ある中心が必要であるということである。ファシズムには、独りの支配者・指導者が必要であるということであり、全体主義は、ファシズムの全体統一性の様態を意味すると考えられるだろう。
 ということで、二転三転することになったが、本件に関して、ファシズムの分析でいいだろうが、全体主義ファシズムの関係は、反転しないといけないことになった。だから、社会主義共産主義体制は、ファシズム体制と見るべきである。今日、北朝鮮の体制も、ファシズムと見るべきである。将軍様という、独りの指導者が存するからである。思うに、ファシズムとは、歴史的には、絶対主義・絶対王制の形態・類型なのではないだろうか。ハイパー・モダン、資本主義の危機・破局的状況において、絶対主義形態であるファシズムが出現するということではないだろうか。絶対主義形態とは、正に、弁証法構造である。
 ここで、近代の問題に触れると、それは、一方では、絶対主義があり、他方では、差異主義があるのだろう。そして、後者が民主主義を生んだのだろう。絶対主義は、哲学的には、弁証法構造と言えるだろう。結局、近代とは何かとなるのである。私は、つねづね、ルネサンスは差異から出発しているのであり、プロテスタンティズムは同一性による反動であると言っているが、そう考えると、近代は基本的には、不連続的差異が原点なのである。それが、イタリア・ルネサンスで初期開花する。しかし、すぐ同一性反動のプロテスタンティズムが生まれる。そして、同一性的主客分離の近代科学が誕生する。近代科学は、不連続的差異の同一性的反動の実践知なのだろう。結局、近代は、フッサールが言うように、超越論的差異の時代であり、いわゆる、近代主義は、同一性反動様態に過ぎないだろう。つまり、近代とは、初めから、「ポスト・モダン」であったのである。デカルトのコギトは、単独自我を指していているのであり、いわゆる、デカルト的合理主義は、その同一性的表現である。
 ここで整理すると、「近代」とは、基本的には、不連続的差異=超越論的差異のエポックである。そして、歴史的には、ルネサンスを発動させ、また、同一性反動形態として、プロテスタンティズムや近代科学を生んだ。「近代」は、様態的には、差異と同一性の矛盾として、表出したのであり、民主主義とファシズムという両義性をもつのである。これは、資本主義についても同様である。資本主義は、ルネサンス的様相とプロテスタンティズム的様相があると思うのである。前者は、社会的共振性(差異共生主義)を持っていたが、後者は、モナド自由主義(例えば、『ロビンソン・クルーソー』)を志向した。(思うに、イスラームの無利子銀行とは、ルネサンス的様相に近いと思うのである。初期のシエナ銀行であったろうか、後で調べたい。)
 ということで、「近代」とは、シュタイナーが述べていたようにまったく質的に新しい人類史のエポックであると言えよう。不連続的差異・単独自我(コギト)・特異性・超越論的差異の時代なのである。しかし、メディア/現象境界における同一性の展開に、差異を忘失して、倒錯した「近代」に、現代陥っているのである。「近代」は本来、差異のエポックなのである。差異を、現代、忘却しているのである。そうすると、ポスト・モダンは意味のない言葉になるのではないだろうか。それよりは、新近代(ニューモダン)の方がいいのではないか。現代は、「近代」の倒錯的忘却があるのである。あるいは、同一性の様相になっているのである。ファシズムである。
 まとめると、「近代」は、新たなイデア界への回帰から始まっていると思われるのである。だから、私が、不連続的差異論/新プラトンシナジー理論で、イデア界への回帰というのは、ピントがずれているのである。モダン・エポックは、イデア界への回帰から始まったと思うのである。それが、イタリア・ルネサンスとして、発動・発現したのだと思う。ただし、同一性の罠に陥りやすく、実際、陥っているのだと思う。ニーチェの超人思想も結局、本来の近代思想と言えるだろう。資本主義も、同一性・ファシズムに染まっているのである。本来の近代性=不連続的差異性=社会共振性(イデアシナジー性)を取り戻すべきなのである。