差異共振シナジー相と連続同一性との関係について:客観的差異と主観

差異共振シナジー相と連続同一性との関係について:客観的差異と主観的同一性:現象と言語


テーマ:プラトンシナジーイデア共振体理論


これは、フッサール現象学の問題である。ノエシスノエマとは、主観性である。そして、ノエマにおいて、客観相を形成する。思うに、ノエマは、本来的には、差異共振場に存しているだろう。つまり、ノエマとは、差異共振シナジー知覚であるということである。これが、身心知覚、身心意識である。《魂》である。しかし、人間は、これを連続・同一性に変換するだろう。ここは、微妙な領域である。普遍領域であるシナジー場と、主観性との接点である。
 先に、差異共振シナジーの原光と現象光とが一如であると述べた。問題は、連続・同一性である。現象は連続・同一性なのであろうかという疑問が浮かぶ。思うに、言語分節化によって、連続・同一性化されている面が強いのではないだろうか。カントの超越論的形式とは、何だろうか。それは、確かに、連続同一性形式であろう。そして、物自体とは、差異共振シナジーのことであろう。私が問題にしたいのは、現象形態と連続同一性形式が等しいのかどうかである。
 直観では、異なると思う。太陽現象であるが、私には、それは、コスモス現象である。また、天の川もコスモス現象である。宮崎駿の絵もコスモス現象の美術である。つまり、差異共振シナジー・コスモスにおける現象である。シナジー・コスモスの光化としての現象である。それは、光子ではありえない。光子は、唯物論科学のアトム主義的単位に過ぎない。
 現象は、シナジー・コスモスの縁であろう。外縁・外延である。この縁と連続同一性はどう関係するのか。これは、先に述べたように、差異共振→連続同一性という終点である。では、連続同一性と言語ないし言語分節の関係はどうなるのか。現象と言語との関係である。ここに近代の問題があるのだろう。構造主義の問題があるのだろう。思うに、言語は反動的連続同一性なのではないだろうか。現象が、純粋連続同一性であるに対して。言語的連続同一性は、差異共振を否定排除するのである。これが、西欧近代の意味ではないだろうか。南欧近代=プロトモダンは、差異シナジー・現象近代であるのに対して。そう、イタリア・ルネサンスが、主に視覚造形芸術を創造したことに注意したい。それに対して、西欧近代は、主に文字言語(グーテンベルグ)・文学を生産/創造したのである。ヨハネ福音書の冒頭の、ロゴスが言葉と、英語やドイツ語では訳されたのである。また、思うに、言語と唯物論は密接に関係している。視覚の問題で言うと、アレゴリーとシンボルの問題となるだろう。(ここは、toxandoria氏の専門領域である。聖母マリアイエズス会の問題でもあるだろう。)あるいは、視覚と言語の問題である。思うに、言語化された視覚がアレゴリーであり、現象視覚は、シンボルではないのか。(思うに、セザンヌの絵画とは、言語視覚を排除して、徹底して現象視覚を追究したものではなかったのか。また、フランドルの絵画もそういうものではなかったのか。)
 さて、本論に戻ると、現象知覚であるノエマと言語の関係をどう見るのかである。カントの超越論的形式とは、どちらなのだろうか。それは、物自体を、言わば、排除しているから、言語形式ではないだろうか。つまり、ほぼ、唯物論形式と言えるのではないか。そう、正に、西欧近代合理主義、近代科学の礎石の形式であろう。
 そうならば、現象連続同一性と言語反動連続同一性との関係はどうなっているのだろうか。これは、差異同一性と反差異同一性との関係である。フッサール現象学で言うと、ノエマノエシスの間に、言語同一性の領域が位置しているということではないだろうか。暴力である言語同一性が座しているように思えるのである。(シュタイナーで言えば、アーリマンである。)そして、現代ニホンジンは、これに捕らえられているのである。つまり、差異同一性現象を排除しているのである。差異シナジー・コスモスを否定・排除しているのである。差異・他者の排除である。悪魔の意志である。
 簡単に言えば、現象と言語の関係の問題である。そう、二つの連続同一性があるだろう。一つは、現象連続同一性と言語連続同一性である。これまで、これを混同していたのである。ルネサンスプロテスタンティズムの相違とも言えよう。プロトモダンと近代主義との相違である。あるいは、共感性と同一化の相違とも言えるだろう。(因みに、精神分析は、前者を見ていないのである。想像界から象徴界への移行を後者の同一化に見ていて、現象共感性があるのを見ていないのである。現実界は不要である。シナジー・コスモス現象界が真実在である。)
 現象から言語への移行において何があるのだろうか。ここには、共振シナジーの排除があるのである。コスモス現象の排除があるのである。ノエマの排除があるのである。ノエマを排除して、言語同一性を置くのである。ノエマ現象像を排除して、言語同一性像を設置するのである。この起因は、スピノザ哲学(『エチカ』)で言えば、悲しみから発しているのである。歓喜は、共振シナジー的であるからである。悲しみ(心的外傷)は、反感をもち、共振シナジーを否定排除すると考えられるのである。(イタリア人が、人懐っこいのは、歓喜が豊かだからだろう。身振りの発話行為を見よ。それに対して、西欧は、悲哀・トラウマが強いのだろう。)言い換えると、共振シナジーが否定されて、いわば、凝固した様態があるのだろう。反感・憎悪と言った反動態としての現象が生じるのだろう。この反動態の連続同一性と言語が結びついているのだろう。つまり、言語は、現象の反動的代償物ではないだろうか。つまり、フィクションとしての言語である。反動連続同一性というフィクションである。本来、現象、共振シナジー現象が本体・実体であるから、この交換のために、言語があるべきであるのに、倒錯して、言語というフィクションが実在のようになっているのである。現象代替物である言語、おそらく、人間は、生き延びるために言語を発明したのであろう。虚構を発明して、生き延びたのだろう。いわば、ファンタジーとしての言語の発明である。幻想である。幻想に生きなければ、過酷な生環境において生き延びることが出来なかったのだろう。宗教もそういうものだろう。反動現象としての人工物としての言語であろう。思うに、これは、ドラッグ等と関係している。いわゆる快感神経と関係している。(近代主義とは一種ドラッグ主義なのだ。ブッシュや小泉を見よ。また、広告というのも、薬物的だろう。)
 ということで、ノエマノエシスの間に、反動・現象代替的連続同一性形式装置(脳神経がその物質体)が、形成されているのである。この反動言語連続同一性が、差異共振シナジー・コスモス現象を否定・排除しているのである。結局、シナジー的現象を復活回復することが、人類の新生になる。D.H.ロレンスが、晩年に、絵画を自分で描き始めたこと、そして、『黙示録論』で、古代における視覚的想像力の意義を述べていたことを想起するのである。それは、アレゴリーではなくて、シンボルとしての視覚想像力である。換言すれば、言語現象視覚ではなくて、共振シナジー現象視覚の復活・新生である。ユニヴァース universeではなくて、コスモスcosmosの復活である。言語反動現象ではなくて、共振シナジー・コスモス現象のルネサンスである。
 芸術で言えば、モダニズムの超克である。プロトモダニズムの再噴火である。イタリア・ルネサンスのようなコスモス現象芸術を新生させることである。コズミックなイマジネーションの復活である。光の新生である。

p.s. 発語について、フロイトの孫の糸巻き遊びが有名である。母親の不在に対して、糸巻きを用いて、母親の代償として、ダー(有る)とフォルト(不在)を反復したというものである。そして、ここには、死の欲動があるということである。これは、明らかに、ルサンチマン、悲哀、反動によるものである。共振シナジーの否定があるのである。しかし、歓喜の発語があるはずである。これが、共振シナジーの発話である。ここでは、言語は、共振シナジーと結びついている。この、言わば、共振シナジー発語を、上の本文では、無視している。これについては、後で、検討したい。
 
p.p.s. 結局、言語とは何かの問題である。本文では、反動的連続同一性として捉えたが、共振シナジー連続同一性としての言語もあり得るのである。つまり、少なくとも、二種類の異質な言語があるのである。反動言語と能動言語である。反動言語とは、代償薬物型であり、能動言語とは、能動観念・直観・イマジネーション型である。上記では、前者の側面を述べたのである。近代主義とは、前者であり、後者を排除しているのである。だから、プロトモダンとは、差異共振シナジー現象・言語の救済であろう。Saving the Appearance(現象の救済)である。オカルティズムではないのである。共振シナジー現象・言語の救済なのである。

3p.s. 後で、ロゴスと言語の関係について検討したい。両者は、重なる面と、そうでない面があるだろう。ロゴスと言ったとき、共振シナジーと連続・同一性の面があるだろう。しかし、連続・同一性は、純粋型と反動型があるのであり、複雑である。後で、明晰に整理したい。