差異共振シナジー相と連続同一性と言語分節


差異共振シナジー相と連続同一性と言語分節


零度差異共振場は、現象界の内在的普遍的基盤と考えられる。これは、原光ないし玄光のコスモスである。ここから、連続・同一性化して、現象・仮象界が発現するのである。そして、人類は、多様に、現象・仮象界を、言語分節化してきたのである。
 よく知られたものでは、虹の色の分節である。問題は、連続・同一性の現象界と言語分節界の関係である。これは、言語の問題として、有名である。
 しかしながら、例えば、treeと木とはそれほど、分節が異ならないだろう。つまり、基本的な単語においては、連続・同一性の現象界の言語分節は共通すると言えるだろう。the sunと太陽である。思うに、連続・同一性の現象界の知覚は、ある形式があるということになるだろうし、それが、カントの超越論的形式あるいは構造主義に通じるだろう。つまり、連続・同一性の超越論的形式ないし構造の普遍性である。これは、一般的普遍性と言えるだろう。これによって、コミュニケーションが可能となるのだろう。翻訳という行為が可能になるのだろう。しかい、この一般的普遍性とは、二項対立の形式であるから、万人の万人に対する戦争が絶えないのである。コミュニケーションの基盤が、戦争の基盤でもあるというのが、人類の皮肉と言うか、矛盾である。これに対して、仏教や叡知学や哲学は、それを超克する叡智を説いてきたが、一般人は、理解できないようである。不連続的差異論/new platonic synergy theoryも、その系譜であるが、ほとんど、理解されない。
 さて、私が言いたいのは、連続・同一性の普遍形式を生んでいる根源は、差異共振シナジー界であるが、それが、宗教の根源なのであるが、それを、連続・同一性の普遍形式であるローカルな言語で表現するために、バベルの塔の混乱となっているということである。連続・同一性である諸言語が、普遍共通の差異共振シナジー場を、特殊・個別なものにしてしまっているのである。本来、万教帰一であるが、それが、理解できないのである。連続・同一性形式=二項対立形式=エゴイズムから脱しなくはならないのである。これは、何千年前から、仏教は説いてきたのに、いまだに、多くの人は、無理解である。愚者としての人類としかいいようがないだろう。道元が言うように、身心脱落が必要である。これは、判断のエポケー・現象学的還元と同質であろう。今日、この普遍叡知が必要なのである。わかってしまえば、簡単なのであるが、これまで、坊主どもが、一知半解で、もったいぶって書いてきたので、庶民にはわからなくなっているのである。
 そうだ、不連続的差異論は、連続・同一性の拘束を断ち切ったのである。新仏教とも言えるのである。結局、この点に、人類や自然の救済があるだろう。諸宗教、諸哲学、諸倫理は、共通の内在根源事象を語ってきたのである。永遠の真理である。
 ここで、光の問題を考察すると、直観では、光は、コスモスと一体である。光を介して、身心とコスモスは一体となる。ミクロコスモス=マクロコスモスである。光視覚を介してである。しかし、この光視覚は、身体化、差異化されていると思う。ここがポイントであろう。身体化・差異化された光とは何か。特異化された光とは。コスモス的な光視覚があると思う。宮崎駿の「絵」に、それを感じる。思うに、差異と連続・同一性とが、対立していない様相だと思われるのである。思うに、連続・同一性が差異を否定し排除隠蔽するのは、スピノザ的に言えば、悲しみがあるからである。暗い経験があるからである。否定反動態があるからである。そのために、差異共振性が否定・抑圧・排除・排出・隠蔽されると考えられるのである。南方に比べて、北方はその傾向が強いだろうし、砂漠地帯もそうではないだろうか。西欧と南欧の違いでもある。簡単に言えば、暗さと明るさである。あるいは、トラウマの有無である。
 悲しみがなければ、トラウマがなければ、差異と連続・同一性は調和するはずである。これが、エデンの園であろう。女神の楽園である。そう、男性の方が、女性より、弱い性格なので、暗さに囚われるのであり、悪魔的である父権制を形成したのではないだろうか。
 では、歓喜の様態において、差異と連続・同一性が調和するならば、連続・同一性の光は、当然、差異に連絡しているのであり、差異共振シナジー界に達すると考えられるのである。光は、原光に達するのである。ロレンス風に言えば、コズミックな太陽である。いわゆる、現象界の太陽は、同時に、コズミックな太陽なのである。差異共振シナジー・コスモスに浮上した現象太陽である。シナジー・コスモスの不可視のスクリーンに映像化された太陽である。洞窟の太陽である。
 とまれ、光は、差異共振シナジーの原光と通じる。この論理は、差異共振シナジーによる原光の、いわば、表皮・皮膜・薄膜が、連続・同一性の太陽ではないだろうか。差異共振シナジーの周囲・円周である。しかし、この円周は、幻像と見るべきなのである。連続・同一性の幻像=現象なのである。つまり、太陽・光とは、差異共振シナジーの原光の連続・同一性的幻像である。マーヤー、仮面である。化粧である。差異共振シナジー原太陽の化粧なのである。黒い太陽が美白顔となっているのである。喩えれば、マイケル・ジャクソンとしての現象光である。差異共振シナジー原光の終着点としての現象光である。不連続的差異の零度共振シナジー光の終点が、現象光である。これを、連続同一性自我は、物質的光、光子と見ているのである。光子とは、シナジー光を物質主義的アトム主義=素粒子主義から観測したものに過ぎない。これは、ヌース理論批判でもある。(半田氏よ、唯物論の悪魔から目を覚まして欲しい。)
 以上で、光は、原光であることになった。相対性理論とは、原光=光の連続・同一性科学と言えるだろう。そして、原光が、差異共振シナジー倫理であるのであるから、Kaistsu氏が言うように、相対性理論は、倫理普遍理論となりうるだろう。とまれ、差異共振シナジー界が、共通普遍界であり、それは、倫理の根源なのである。原倫理としての原光/シナジー・コスモスでもある。