光と闇、同一性と差異との対極性:視覚と身体との極性コスモス:イデ


光と闇、同一性と差異との対極性:視覚と身体との極性コスモス:イデア知性とイデアシナジー・アート


テーマ:プラトンシナジーイデア共振体理論


私は、どうしたら、同一性の視覚や意識(反動連続・同一性近代意識:簡略化して、反動近代意識)を超えて、差異共振意識をもたらすことができるのかと、その方法を考えるのである。座禅や瞑想は、一つの実践的な方法で、知的方法、「啓蒙」的方法、即ち、叡知的方法ではない。
 私の経験から言うと、D.H.ロレンスの『無意識の幻想曲』Fantasia of the Unconsciousness を、条件付きで、奨めたいのである。何故、条件付きかというと、この書は、ロレンスが、ファシズム的指導者を探求していた時期の書であるからである。つまり、権力への意志があるときに書かれたから、それに対する批判知性をもってこれを読まないといけないという条件が必要なのである。
 それとは、別に、より叡知的な方法を考えると、視覚と身体との知的統一の方法があると思うのである。これは、やはり、単に知的な方法ではなく、身体技術的になるだろう。とまれ、説明すると、視覚は、連続・同一性を導くのであり、今日、意識主導的であり、差異身体が排除されているのである。あるいは、差異共振身心性が排除・隠蔽されているのである。この排斥・隠蔽された「身体」を賦活させる必要があるのである。ここでの危険は、自我を喪失した身体技法である。洗脳やマインドコントロールの危険があるのである。だから、安易な身体技法は止めて、哲学的知性(叡知)を涵養すべきである。そう、身体技法に、哲学的叡知を伴わせないと絶対にいけないと思う。ここでは、また、オカルティズムの危険もあるのである。ルドルフ・シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』は、確かに優れた「霊的」瞑想の入門書であるが、しかし、オカルティズムに染まっているために危険であると思う。私は、純哲学的な叡知認識の獲得が役に立つと思う。ドゥルーズスピノザフッサール、カント、等を読むことは、哲学叡知を形成するために、たいへん、優れていると思う。そう、霊性ではなくて、差異共振シナジー知性=叡知の獲得が必要なのだと思う。第一級の哲学は、差異共振エネルギーを、合理知に変容させる知力があると思うのである。確かに、絵画や音楽等の芸術は、直截にエネルギーを喚起するが、それを、知としての形成することは少ない。知が必要なのである。何故、知なのか。つまり、差異共振シナジーを包摂した知の必要である。スピノザ哲学で言えば、能動的観念である。能動的知性とも言っていいだろう(もっとも、これをさらに不連続化すると、最終形態となるだろう)。能動的知性は、差異共振シナジーを包摂した知性である。これは、どういうことなのだろうか。これは、イデア的知性だと思うのである。主客二元論を超克した内在的知性だと思うのである。主客分離する以前の、知存在であるイデア共振態の知性・認識だと思うのである。ここに達する必要があるのである。イデア知性の獲得の必要である。これによって、生活世界が、差異共振的生活世界が構築されていくと考えられるのである。万人の万人に対する戦争である、エゴイズム(連続同一性自我主義)の生活から脱却することができるようになるのである。簡単に言えば、理念的知性の獲得である。そう、哲学とは、わかりやすく言えば、理念学、理念知、理念科学であろう。理念知性の獲得が、戦争を平和に叡知的に変容させるのである。そう、また、芸術は、理念を形態化するものであるべきであろう。理念の感覚形状化である。コンセプチュアル・アートがあるが、イデア・アートとなるべきであろう。プラトンは、芸術家を、イデアを貶める者と、一見、書いているが、そのイデアは、原型としてのイデアであり、理念としてのイデアではない。つまり、差異共振シナジーイデアと原型のイデアがあるのであり、理念イデアとは、前者である。だから、イデアシナジー・アートである。
 ということで、視覚(連続・同一性)と身体(差異共振性)との統一の必要という論点は、イデア知性ないしイデアシナジー・アートの創造ということになったのである。思うに、イデア知性、イデアシナジー知性が、科学・技術・芸術・経済・政治・生活、等、一切合切を包摂統一するだろう。NEW PLATONIC SYNERGY THEORYが、今や、超統一理論のエッセンスを提起していると言えよう。