《魂》とは何か:死んだら「自我」はどうなるのか

今は十分検討する余裕がないので、簡単に述べたい。
 私が住んでいるマンションの管理人さんが亡くなった。急逝で驚いている。とまれ、もう15年以上、なじみだったので、なにかぴんとこない。
 そこで、この問題を思ったのである。かつては、輪廻転生の有無をずいぶん考えた。今の私の考えでは、自我自体が、あやしいのである。「わたし」とは、連続・同一性によって形成されているものである。今、連続・同一性の考えが揺れ動いているので、考察が混乱する恐れがあるが、とまれ、今の考えを述べてみたい。
 「わたし」とは、確かに、一見、存在しているように思えるし、「わたし」は誰それとして、日常、通っている。身分証明書に、アイデンティティ・同一性が書かれている。しかし、それは、差異の連続・同一性なのである。本体は、差異であり、差異の共振シナジー相である。これが、本当の「わたし」であろう。それは、「わたし」であり、且つ、「わたし」ではない、即非の様相である。しかし、より精緻に言えば、「わたし」以前の事象であろう。つまり、差異としての自己である。差異としての自己とは、他者への志向性である。だから、他者であり、且つ、他者ではない、差異としての自己が、前「わたし」である。この差異の即非性が、前「わたし」である。これは、同一性ではない。意識している「わたし」とは、いわば、幻像である。ただし、特異性が、一定となるだろう。おそらく、これが、倫理一定の原理となるのだろう。特異性=倫理である。そして、これが、差異の倫理であり、「わたし」の相対的倫理とは異なる。
 とまれ、そのような差異・特異性の自己とは、端的に、何なのであろうか。それは、差異共振シナジー極性態としての自己である。差異共振シナジーという多様性において、絶対倫理的なのであえる。この、一種矛盾した論理を認識する必要がある。固定は、没倫理的であり、差異共振的な多様性こそ、倫理的なのである。自己とは、特異性的非自我である。
 さて、ここで、《魂》や死者について考えよう。《魂》とは、差異共振的自己のことである。そして、死者とは、自我から、《魂》になった者である。問題は、《魂》の様相である。そう、端的に言えば、《魂》とは、差異のことである。この差異、不連続的差異は、現象生命から解放されたとき、現象生命化される以前と、相違変化があるのだろうか。
 思うに、ここで、半田氏の潜在的イデアと顕在的イデアの区別を使用するといいように思える。とまれ、不連続的差異論において、イデア/メディア様相とメディア/現象様相の二種類が考えられる。前者が、不連続的差異様相であり、後者が連続同一性様相であると言えよう。後者中心の「無明」の「衆生」は、前者が潜在していて、未活性状態である。それに対して、前者を賦活させている意識がある。これが、仏陀であろう。差異を賦活させるとはどういうことなのか。思うに、デュナミスから、エネルゲイアにすることだろう。これを、半田氏の用語を借りて、潜在イデアと顕在イデアと呼んでもいいだろう。
 問題は、後者の意味である。これは、連続同一性による壁の解体を意味するだろう。この抑圧の解除によって、差異が賦活したと言えよう。つまり、もともと、差異は、差異共振シナジー・エネルギー(デュナミス、ポテンシャル・エネルギー)をもっているが、それが、連続同一性の壁で、押しとめられていると言えるだろう。しかし、この反動の壁が解消されると、差異共振シナジー・エネルギーが活性化されるのである。これを、顕在イデア化と呼んでいいだろう。そう、ここで未生と死後との差異=《魂》のことを考えると、差異を活性化するか否かで、異なると言えよう。差異共振シナジー化を賦活させた場合、《魂》=差異は、より純化すると言えよう。それに対して、不活性の場合は、単に可能性だけである。デュナミスのままである。《胚芽》のままである。しかし、賦活・活性化すると、成長するのだろう。差異共振の実現態(エネルゲイア)である。これは、質的に異なると言えよう。そして、この差異共振シナジーを、連続同一性の利己主義=悪魔主義から、否定しているとき、どういうことが、《魂》=差異に起こるのだろうか。それは、イデアの摂理に対する《違法行為》である。
 思うに、差異共振シナジーは、単にエネルギーだけではなくて、当然、《知性》であり、記憶をもつであろう。これは、シナプスの本体であろう。つまり、《魂》=差異は、否定の力、反動の力を記憶していると思えるのである。これは、同一性暴力である。この歪みを蓄積していると思うのである。そして、これが、唯識論の阿頼耶識ではないだろうか。《魂》=差異の力の記憶である。いわば、間主観性・間差異の記憶である。これが、《魂》=差異に記録されるのだろう。つまり、《魂》=差異とは、現象界の記録媒体を内蔵している。メモリーを内蔵しているのである。思うに、この《魂》=差異メモリーが、オカルティズム等におけるカルマと関係するのではないだろうか。《魂》=差異とはほとんど、霊・スピリットである。しかし、これは、あくまで、差異イデアであることを確認しないといけない。差異/イデアの記憶・記録・メモリーなのである。
 ということで、《魂》・差異記録の永遠性が考えられるのである。これは、いわば、イデア・デジタル・メモリーである。輪廻転生とは、だから、正しいのではないだろうか。ただし、自我はもう解体している。差異としての《魂》としての自己ないし意識があるのである。差異の輪廻転生である。