コスモスと特異性と不連続的差異:そして、自我と差異について

コスモスと特異性と不連続的差異:そして、自我と差異について


テーマ:個と特異性


不連続的差異論誕生に際して、差異=コスモス性の不連続化によって、私は、至高に歓喜した。この点は、先にも述べたが、まだ、この差異=コスモスの不連続化の意味について、十分述べていないと感じられるので、ここで、再考する。
 その後の問題は、先に述べたように、特異性である差異=コスモス性と、イデア界の不連続的差異の共立性との一致の説明をどうするのかであった。ここで、また、当時(二年弱前)の考えを辿って考察しよう。私が感じていて、差異=コスモスとは、それで、全体的なものである。そして、それ自身が、不連続的差異であると感じたのである。問題は、不連続的差異であるコスモス・全体としての私と、イデア界総体における一つの不連続的差異である私との、矛盾である。私は、全体である。そして、私は、全体の一部である。これを、不連続的差異の共立であるイデア界を考えて、これらを一致させようとした。差異が共立しているイデア界は、コスモスを形成しているだろう。そして、その中の一つの不連続的差異である「わたし」は、コスモスを感じるだろう。多即一、一即多である。「わたし」は「一」である、と同時に、「わたし」は、「多」の一つである。しかしながら、「わたし」のコスモスを特異性と感じていた。特異性とコスモス一体性とが結びついていた。簡単に言えば、「わたし」が全体である。このコスモス一体感覚は、イデア界の総体性とは異なるだろう。というのが、先の、そして、今の結論である。やはり、私の解釈はおかしかったのである。
 ここで、今の考えを書こう。「わたし」の特異性とは、不連続的差異性とは、一つの不連続的差異性である。この一つの不連続的差異が、コスモスを形成しているのである。そして、コスモスとは、差異共振シナジー・コスモスということである。つまり、「わたし」の特異性=コスモスとは、「わたし」である一つの不連続的差異=特異性と、それが共振している差異共振シナジー・コスモスとを、同時に、指しているということである。つまり、メディア界の差異共振シナジーを、指しているのである。図式化すれば、たとえば、


dd1(「わたし」=特異性)☯dd2☯dd3☯・・・☯ddn


(ddとはdiscrete又はdiscontinuous difference不連続的差異の略号である。また、☯は、共振シナジーを意味する記号である。)

となり、dd1からddn総体=コスモスである。こう考えると、不連続的差異論誕生以降に感じた主観を明快に表現するだろうし、不連続化以前において、これが、現象界的連続・同一性と結びついていたと言えよう。即ち、大澤真幸氏の言う「アイロニカルな没入」と同質の様態にあったと言えよう。言い換えると、差異が、連続・同一性かしていたために、反動化=ファシズム全体主義化していたのである。付け加えると、ヌース理論が、この連続・同一性・反動性に陥っていると思う。
 差異の不連続化とは、メディア/現象境界における連続・同一性を切断したということである。これによって、メディア界が独立したのである。差異共振シナジー界が発現したのである。
 では、差異の不連続化とは何か。それは、特異性である差異(一つの差異=単独志向性)を、連続・同一性の現象界から切断することである。即ち、メディア界→現象界の連続性を断ち切ることである。道元の身心脱落である。エポケーによる現象学的還元である。間主観性・生活世界の発現である。内在倫理・道徳の出現である。この問題をもっと精緻に考えよう。
 差異(単独志向性)が、不連続化する以前は、差異は、連続・同一性である現象界と「連続」していた。これは、メディア/現象境界のもつ両義性によるだろう。一方では、メディア界(差異共振シナジー・コスモス)を指しつつ、他方では、現象界の連続・同一性の自我を指しているのである。(思うに、アナキストシュティルナーの唯一者とは、このことを意味しているのでないだろうか。)この境界において、連続・同一性が主導的だと、弁証法構造となり、いわば、構造主義となる。しかし、差異が主導的だと、「ポストモダン」又は「ポスト構造主義」となる。しかし、この差異は、連続・同一性から離脱していないために、「アイロニカルな没入」を引き起こすのである。ドゥルーズガタリ哲学では、差異=微分の理論であり、再領土の思想である。また、デリダでは、脱構築自身が、解体してしまうというアイロニーである。結局、弁証法構造・構造主義と「ポストモダン」・「ポスト構造主義」は、メディア/現象境界事象の両面に過ぎなかったのである。
 さて、この境界の連続性の問題であるが、その連続性とは、何なのか。自然発生なのであるか。思うに、連続性と同一性とを分離させる必要があるのではないだろうか。現象連続性と現象同一性との区別である。これらは、質的に異なると思うのである。私は、先に、差異現象と同一性現象の区別のようなものを言った。そして、前者にルネサンスを、後者にプロテスタンティズムを当てはめた。(ついでに言えば、差異言語と同一性言語があるのである。「初めにロゴスありき」の「ロゴス」とは、差異言語ないし差異論理のことであろう。それを「言葉」としたとき、差異言語と同一性言語が混同したと言えよう。)
 ルネサンスにおいては、差異は連続的に現象化した。しかるに、宗教改革においては、差異は、同一性的に現象化したのだろう。境界の連続性の問題とは、的確に言えば、同一性化の問題であろう。即ち、境界の同一性化、境界の構造主義化である。カントで言えば、超越論的形式化である。これは、近代合理主義、近代科学・技術主義の形式である。
 ここでも、直観で述べよう。同一性形式とは、ある種の知性形式である。二項対立の形式である。コーヒーカップがあるとする。これは、グラスと対立し、相互排除する。これが、二項対立・同一性である。A=Aであり、A≠Bである。排中律でもある。単に連続性だけならば、AとBとは、対立しないだろう。A= A、B=Bである。ある意味で、AとBとは無関係である。
 では、同一性はどうやって成立するのだろうか。ここには、弁証法があるだろう。否定・排除・反動・暴力があるだろう。この点は、以前述べた、


差異1⇔同一性⇔差異2


の図式を考えればいいだろう。同一性が、差異1や差異2を否定・排除するのである。ここでは、同一性をコーヒーカップとし、差異をグラスや湯呑み茶わん等にすれば、いいのである。連続性ならば、差異と同一性が並存・共存するだろう(ルネサンス)。しかし、同一性主義だと、同一性が差異を否定し、排除するのである。この違いについて、先に、スピノザ哲学(『エチカ』)をあげて、説明した。歓喜と悲哀との相違で説明した。これは、能動的観念と反動的観念をそれぞれ生むだろう。前者が、差異と同一性との共存させるのであり、後者が、同一性が差異を否定し排除すると考えられるのである。歓喜を共感性、悲哀を反感性としてもいいだろう。あるいは、共振性と凝固性とでも言えよう。あるいは、曲線性と直線性と。思うに、シナジー創造エネルギーと反シナジー破壊エネルギーとでも区別できるだろう。
 思うに、差異の質的様相を区別する必要がある。差異の共振シナジー相は、差異の極性作用相であるのに対して、差異の否定的相は、差異の脱極性化作用であろう。
図式化すると、
 

−−差異1++差異2−−差異3++差異4−−・・・


という極性による排斥化の様相ではないだろうか。だから、脱極性化という呼び方は正しくないだろう。つまり、極性共振(牽引)様相と極性排斥(反発)様相の二つの極性様相があり、前者が共存性を生み、後者が同一性中心主義を生むだろう。ということで、差異極性排斥化が、同一性主義を生むということになった。そして、差異極性排斥性とは、一般的に、男性・父権・北方的であり、差異極性共振性とは、女性・母権・南方的と言えるだろう。プロテスタンティズムルネサンスの相違に通じるのである。
 以上から見ると、差異の不連続化とは、同一性主義・二項対立を解体したことになろう。それは、言い換えると、連続性と同一性とを不連続化したと言えるだろう。
 では、これは、経済的には何を意味するのだろうか。また、社会や政治的に。思うに、同一性主義経済とは、金融資本主義である。拝金主義である。マモン主義である。不連続主義経済は、差異と同一性を併存させる。つまり、特異性(個人、自然、地域社会)と同一性(貨幣・資本)とを共存させる。思うに、これは、「有機体」的資本主義、差異共振シナジー資本主義と言えるのではないだろうか。今日・現代、個人は、差異ではなくて、同一性主義化・アトム化・モナド化しているのである。