不連続的差異、連続性、同一性について

不連続的差異、連続性、同一性について


テーマ:差異と同一性


最近の考察において、連続性と同一性が問題になっているので、ここで、整理するために、検討したい。
 この問題は、不連続的差異論の基礎論に関係する重要な問題である。即ち、イデア界における不連続的差異が、1/4回転によって、零度共振連結をして、メディア界を形成する。このメディア界は、差異共振界であり、不連続的差異=原イデアが共振しているのであるが、基礎として、ここでの原イデアは、不連続性と連続性を併存させているのである。
 さて、哲学者のジル・ドゥルーズは、差異=微分として、彼の哲学の半面の基礎としている。この差異=微分の差異とは、連続化した差異である。
 では、この連続化した差異と同一性とはどう関係するのだろうか。ここで、精緻に考えよう。メディア界において、不連続的差異が共振する。図式化すると、

差異1・即非・差異2・即非・・・即非・差異n

(ただし、差異とは、不連続的差異のことである。)


となる。即ち、差異零度共振様相(シナジー)において、共振による差異の連結様相が発生する。そして、この差異連結様相が、連続性である。差異=微分とは、この差異連結様相における連続性をもつ差異のことである。
 問題は、連続化された差異と同一性と現象の関係である。連続化された差異は、まだ、同一性ではないだろうがい、しかし、同一性の単位元素ではないだろうか。例えば、酸素分子を同一性とするならば、酸素原子が連続的差異にあたるだろう。(これは、あくまで、比喩である。因みに、不連続的差異が、量子・素粒子に当たるだろう。ヌース理論の問題点は、これらを、同一視しているところである。素粒子、原子、分子とは、物質主義的連続観による見方であり、「物自体」ではないのである。)
 私が、これまで問題にした差異と同一性の問題であるが、この差異とは、今確認した連続的差異のことではなく、不連続的差異のことである。整理して言えば、
不連続的差異と連続的差異・同一性の問題である。(先に、差異現象と同一性現象、あるいは、差異言語と同一性言語との区別等を述べたが、これらの差異と同一性も、今、ここで、述べたことが適用されることを明確に確認しておきたい。)
 そして、メディア界とは不連続的差異の零度共振シナジー界であるが、不連続性と連続性が即非的に共存しているのである。不連続的差異の共振的共立である。(イデア界における不連続的差異の共立とは、接することのない、共立、絶対的共立であり、メディア界の共立とは、即非的共立である。しかし、単に相対的共立ではない。)
 これに対して、現象界とは、メディア界から発する連続的差異・同一性が顕現した世界である。【因みに、光であるが、それは、これまで、同一性=光としてきたが、そうではなくて、不連続的差異共振シナジーが原光であり、それが、現象界においては、光として発光しているのではないだろうか。つまり、原光を連続的差異・同一性の視覚で、捉えているものが光ではないだろうか。ここは、実に繊細微妙な問題フィールドである。感覚も不連続的差異感覚(略して、不連続感覚)と連続的差異・同一性感覚(略して、同一性感覚)の二種類があると思うのである。不連続的感覚で捉えるものが原光であり、同一性感覚で捉えたものが、光ではないだろうか。とまれ、ここで言うべき点は、アインシュタイン相対性理論とは、メディア界の原光事象を、連続的差異・同一性の現象界の物質主義的数式で捉えているということではないだろうか。(後で、さらに検討を深めたい。】
 問題は、複雑微妙である。不連続的差異と同一性の関係と、同一性と言語の関係の説明である。あるいは、差異と同一性と自我の関係の問題である。
 問題を端的に絞ると、不連続的差異と同一性とは、共立するのか、排斥関係にあるのかである。また、それ以前に、同一性とは何かの問題がある。同一性とは、端的に、差異を否定した連続性の固定である。ならば、原理的には、同一性は差異を排斥するものである。では、同一性と連続的差異の関係はどうなのであろうか。同一性の「アトム」が、連続的差異であった。だから、両者は、「連続」的である。だから、問題は、連続的差異と不連続的差異との関係である。まとめると、連続的差異・同一性と不連続的差異の関係の問題である。これは、基本的には、二律背反である。即ち、即非の論理である。そして、これが成立しているのが、メディア界・差異共振シナジー界であり、これを、矛盾律排中律・二律背反の同一性の論理で排除したのが西洋文明である。同一性の論理が成立するには、同一性中心主義ないし同一性的二項対立論理が必要である。この点を考えよう。
 同一性を優性、不連続的差異を劣性と見る力学はどうして成立するだろうか。メディア界においては、そのような力学はない。それは、これまでの考え方では、メディア/現象境界に成立する力学である。連続的差異・同一性を中心とする傾向とは何なのであろうか。
 やはり、これもこれまでの考え方に拠れば、1/4回転による共振エネルギーの志向性である。それは、同一性の志向性である。即ち、1/4回転で、不連続的差異共振シナジー様相をもつメディア界が形成されるが、しかし、この1/4回転、即ち、イデア界の原力(KAISETSU氏の発見では、方向性・ベクトルである)は、不連続的差異→差異共振性→同一性という志向性をもつのである。この同一性の志向性が、不連続的差異を否定し排除・排斥・排出・隠蔽すると言えるだろう。(ここで、幾何学を考えると、同一性軸があるはずである。Z軸をそうするのか。第四の軸をそうするのか。思うに、Z軸は差異共振プロパーの軸である。思うに、YZ平面がメディア平面(参考:ドゥルーズガタリの内在平面)で、これが、さらに、同一性化して、三次元空間が発現するのではないだろうか。メディア平面の立体化が、現象三次元空間ではないのか。つまり、Y軸ーZ軸ー第四軸の三次元空間である。この点については、後で検討したい。)
 このように考えると、メディア/現象境界が、同一性力学の境界であり、ここで、同一性が支配し、差異が否定・排除され、現象界が発現すると言えるだろう。では、同一性と言語はどう関係するのだろうか。思うに、同一性のシンボル化が言語ではないだろうか。ラカン象徴界と呼んだものは、正しくは、同一性現象界と言うべきであろう。これで、問題が解決したと言えるだろう。
 では、1/4回転が不連続的差異(原イデア)→同一性の志向性をもつならば、これとは、逆の志向性が考えられるのではないだろうか。+1/4回転があるなら、−1/4回転が考えられるだろう。あるいは、二回目の1/4回転である。即ち、2/4回転である。これは、差異共振が解消されることになるのである。これは、同一性→差異共振性→不連続的差異の志向性(負の志向性)をもつのではないだろうか。ならば、2/4回転によって、不連続的差異が新たに発現して、同一性主義が破壊されると言えるだろう。思うに、不連続的差異論とは、この負の志向性を理論化したものではないだろうか。負の志向性が、同一性中心主義(「ロゴス中心主義」)を、破壊すると言えよう。何故なら、同一性中心主義の力学である正の志向性が、もはや、消滅して、不連続的差異・絶対的差異への志向性が生成したのであるから。現代は、思うに、負の志向性の時代なのであろう。そして、ポストモダンポスト構造主義とは、この動きの不明晰な潮流であったのではないだろうか。そして、不連続的差異論が、この潮流を明晰に把捉し、理論化したということではないだろうか。【思うに、ヌース理論もポストモダンポスト構造主義の流行の一種であると言えよう。それは、ベルクソンハイデガードゥルーズ(の半面)(/田邊ー中沢)の連続・同一性の、ファシズム全体主義の哲学の系譜である。】
 では、先に提起したプロトモダンとは何か。それは、基本的には、負の志向性のエポックということではないのか。イタリア・ルネサンスが、これの体現であるが、正の志向性が主導的である西欧において、負の志向性が反動化して、プロテスタンティズム/西欧近代主義を生んだと言えるのではないだろうか。ポスト西欧近代主義であり、プロトモダンの貫徹が必要なのである。それは、南欧近代主義の進展ということになるだろう。
 とまれ、負の志向性によって、不連続的差異の共振シナジー領域(メディア界)が、純正化したと言えるのだろう。正の志向性においては、メディア界は、同一性を帯びたのである。しかし、負の志向性においては、脱同一性によって、共振シナジーが純粋化したと言えるだろう。ただし、危険は、ニーチェのように、絶対的不連続的差異へと意志して、差異共振性である共生・共立性を破壊してしまうことである。この点、フッサールの方がバランス性をもっていたと言えるのである。ニーチェは、とまれ、同一性中心主義の絶対的破壊という歴史的意義をもっているのであり、今日では、ポスト・ニーチェとして、フッサールD.H.ロレンスの哲学・思想が評価されなくてはならないだろう。それは、NEW PLATONIC SYNERGY THEORY に内包されるのである。