デリダの理論について、他:イデア・シナジーと量子力学

デリダ脱構築哲学とは、奇妙な性質をもっている。一方では、ロゴス中心主義を批判し、解体するのであるが、他方では、自分自身を解体して、いわば、差異と同一性が永遠の相克状態にあるのである。即ち、差異が同一性に勝利するが、同時に、同一性が差異に勝利するのである。この反復される脱構築性は、何なのであろうか。
 一見、不連続的差異論のメディア界の事象のように思えるが、メディア界は差異の即非の様相をもっているのであり、差異1―即非―差異2である。即ち、差異1=差異2且つ差異1≠差異2である。この《且つ》がポイントなのである。等号を、あえて、同一性とすれば、同一性且つ差異性の即非の論理が、メディア界の「ロゴス」であり、ここには、脱構築理論のような、相克性はないのである。これは、決定的ポイントだと考えられる。だから、デリダ理論を不連続的差異論において位置づけるならば、それは、メディア界ではなくて、メディア/現象境界に位置づけられるのである。しかも、構造主義のような弁証法構造の領域ではなくて、メディア界→現象界の正の志向性と、メディア界←現象界の負の志向性の、±の正反対の志向性が重なる領域に存すると言えよう。だから、これは、統一された理論ではなくて、折衷理論なので、理論としては、不十分である。また、一種遊戯に堕する危険をもっているのである。この点について考察しよう。
 デリダ理論の問題点は、ロゴスの位置付けにあると考えられる。ロゴス・音声言語中心主義を批判する脱構築理論が、ロゴス中心主義であるとデリダは考える。これは、完全な、単純な勘違いである。ロゴス中心主義とロゴスとは、明らかに、別のものである。ロゴスを使用したから、ロゴス中心主義になることはありえない。ここでは、ロゴスを論理としよう。論理を言説に用いるのは当然であり、それをロゴス中心主義というならば、あらゆる言説がそうなるが、それは、無意味な用語である。ロゴス中心主義ではなくて、同一性中心主義と言えば、説得力があるのである。そして、これを批判のターゲットにしたのが、ジル・ドゥルーズであった。
 だから、デリダ脱構築理論の攻撃対象をロゴス中心主義から同一性中心主義に変えて、考えると、デリダは、同一性中心主義を差延論によって批判したのである。差延という基本ロゴス=論理がそこには存しているのである。そして、差延ロゴス・論理とは、パルマコン論から、それは、対極性の論理であることがわかるのである。毒でもあり、また、薬でもあるパルマコンは、正に、対極性を体現しているものであろう。だから、デリダは、差延論において、不連続的差異論のメディア界の即非の論理に言及したことになるのである。だから、デリダは、東洋哲学の論理に到達していたのであるが、自身の倒錯的な論理であるロゴス・音声言語中心主義説によって、混乱した理論を展開したことになったのである。だから、デリダ理論は、東洋哲学から見ると、未熟な理論なのである。差延論は、即非論に吸収されるのである。
 さて、ここで、ついでながら、量子力学における粒子と波動の相補性について、簡単に考察してみたい。先ず最初に、粒子も波動も、唯物論自然科学の視点から、もたらされたものであることを、確認したい。物質主義的現象という実験・観測からもたらされた考え方である。唯物科学のパースペクティブから、差異共振シナジー様相という自然を捉えようとしているのが、量子力学である。換言すると、イデアシナジー事象を、同一性主義唯物科学から仮説的に記述しているのが、量子力学だと考えられるのである。簡単に言うと、イデアを物質として捉えようとしているのである。【ヌース理論の誤りは、イデア=物質としている錯誤にある。これは、極めて、たちが悪い倒錯理論であろう。量子論は、唯物論によって徹底されているが、ヌース理論は、イデア論的物理学を唯物科学にし、また、同時に、唯物科学をイデア論的物理学にしているからである。はっきり言って、ペテン・詐欺・誤魔化し理論である。これは、イデア科学(プラトン・サイエンス)と唯物科学を混同した、お遊び理論・仮説ゲームである。】
 では、粒子や波動とは、プラトンシナジー・サイエンスでは、どうなるだろうか。素粒子は、共振シナジー場における不連続的差異・原イデアではないだろうか。そして、波動とは、共振シナジー場における差異共振波動ではないだろうか。共振シナジー場において、粒子と波動とは正に、相補性をなしていると考えられるのである。あるいは、粒子即非波動である。
 そして、いわゆる非局所性についてであるが、不連続的イデア・共振シナジー・フィールドとは、当然、物質界ではなくて、シナジー化されたイデア界(メディア界=イデアシナジー界)であるから、物質現象界の局所性の概念が不成立であるから、また、非局所性の概念も不適切であると考えられる。物質界の時空間はここでは成立していないのである。いわば、超時空間である。思うに、無限速度で、共振シナジー・「エネルギー」が移動していると考えられる。ここは、きわめて微妙な領域である。慎重に考えないといけない。次のように考えるといいだろう。イデア・レゾナンス(共振)・シナジーは、いわば、実現されたイデア界である。イデアエネルゲイア化である。(だから、イデア界を、やはり、イデアのデュナミスと呼ぶのは当を得ているだろう。)そして、このイデアエネルゲイアを、物質現象界のスクリーンに映しているのが、量子力学であるだろう。量子力学という物質主義スクリーンないし幕である。このスクリーン(洞窟のスクリーン)は、イデアシナジーイデアエネルゲイア素粒子や波動として、映し出しているのである。そして、ここは、時空間の局所性が支配すると仮説されているので、量子の非局所的な動きは、パラドックスとなるのである。もともと、超時空間の実在を、時空間のスクリーンに映し出しているので、このようなパラドックスが生じると考えられるのである。
 ここで、光や光速度のことを考えよう。光とは何か。それは、端的に、イデア・レゾナンス・シナジーエネルゲイアのことではないだろうか。メディア界の根源事象・原事象である。そして、これは、正しくは、原光であろう。この原光が、現象スクリーンにおいて、光現象となるのである。ここで、アインシュタイン相対性理論を考慮すると、光速度が一定となるのは、根源の原光が問題になっているからであろう。もし、原光がなく、現象界の光だけならば、当然、観測される光速は、超光速になることが生じるはずである。光速度が一定なのは、原光が共通事象・原事象であるからだろう。現象界の時空スクリーンは、原事象の現象様態に過ぎないと考えられるのである。時空四次元の現象様態は相対的時空間に過ぎないのである。ということは、アインシュタインの理論は、逆に、絶対事象を扱っていると考えられるだろう。この絶対事象は当然、イデア・レゾナンス・シナジーエネルゲイアである。この絶対事象が、現象時空四次元の唯物科学では、光速度一定と記述されると考えられるだろう。
 では、この絶対事象・原事象において、原光「速度」は何であろうか。原光は、超時空間事象であるから、もはや速度は問題にはならない。また、非局所性も問題にならないだろう。しかし、いちおう、無限速度があり、無限空間であると言えるだろう。
 (以下は、思考実験である。)
【これを幾何学化するとどうなるだろうか。これは、きわめて、難問であるので、一応、円と作業仮説しよう(球面も考えられる)。Y軸とZ軸の平面(メディア平面ないし「内在平面」)を考えると、原点を中心とする円を、原事象は形成するとしよう。プラトンは、イデアは、円運動をすると述べているが、メディア平面での原事象としての円が、これを意味するのではないだろうか。つまり、対自的なイデア幾何学としてのメディア円である。そして、このメディア円が、メディア軸ではないだろうか。円軸である。即ち、Y軸虚軸が、円となるのである。虚円軸である。円周は、原点からの距離が常に一定である。円周を(y,z)で記述できる。半径を1とすると、y^2+z^2=1である。思うに、無限速度、無限空間とは、この円虚軸における事象ではないだろうか。即ち、原イデア・即自イデアの1/4回転で、円虚軸上で、無限速度の円運動をするイデアシナジー=対自イデアが形成されるということではないだろうか。円が無限空間であり、円周を無限速度で、原光が円運動しているのではないだろうか。これが、知即存在(知存在)ではないだろうか。これが、原時空・時空素ではないだろうか。これが、対自イデア=顕在イデアイデア・レゾナンス・シナジーではないだろうか。簡単に言えば、円としての原光・《イデア》(=メディア)である。あるいは、時空素・原光円としての《イデア》=メディアである。これを、物質現象スクリーンにおいて、一定の光速度をもつ光球として太陽を把捉しているのではないだろうか。原光円を現象光球と見ているのではないだろうか。
 では、原光とは、何色と表現できるのだろうか。KAISETSU氏が論述したように陰陽極性補色性をもつとすれば、陰陽色としか表現できないのはないだろうか。ロレンスのdark sunとは、原太陽のことだろう。あるいは、玄太陽ではないだろうか。玄は単に黒とは異なるだろう。だから、原光=玄光であろう。ロレンスのdark sunは、玄太陽であろう。現象太陽に対して、玄太陽である。光に対して玄光である。これが、イデア・レゾナンス・シナジーエネルゲイアであると考えられる。また、ダークエネルギーとは、これを指しているのではないだろうか。つまり、現象界の観測では、光現象中心で、根源の玄光原エネルギーを捉えていないと考えられるのである。これは、現象エネルギーに対して、玄エネルギーと言えよう。
 また、さらに思考を展開させると、玄太陽は有限であろう。奇数倍の1/4回転は、玄太陽を生成させるが、偶数倍の1/4回転は、玄太陽を消滅させるだろう。こう考えると、ヒンドゥー教宇宙論はそれなりに正しいのではないだろうか。宇宙の生成消滅の反復である。しかしながら、それは、螺旋的な生成消滅と言えよう。進化というより、進展であろう。進展的に生成消滅する宇宙ということになるだろう。第1回目の1/4回転の玄太陽と第3回目の1/4回転の玄太陽は異なるだろうし、また、第5回目の1/4回転のそれも異なるだろう、等々となるだろう。
 では、銀河系やその他の星雲等はどう説明されるだろうか。原光円(玄光円)があるなら、作業仮説であるが、原光円の螺旋的生成消滅の様々なプロセスが、それらではないだろうか。過去の原光円が、遥かな星雲でないだろうか。そして、未来の原光円も、それらではないだろうか。言わば、大宇宙は原円光の永遠回帰の現象界的概念図ではないだろうか。】