オカルティズム批判:オカルティズムは、連続・同一性=ファシズム・

オカルティズム批判:オカルティズムは、連続・同一性=ファシズム全体主義思想の一つである


ルドルフ・シュタイナーは、シュタイナー学校創始者として有名であるが、しかし、プラトンシナジー新論から見ると、たいへん、危険である。それは、新興宗教と同じである。霊感商法的になるだろう。なぜなら、霊主体従だからである。精神ではなくて、霊を主体にしているからである。精神とは、心身・魂の知性のことである。霊は、精神を連続・同一性の観念から見たものである。つまり、唯物論と同型である。換言すると、唯物論と相補性をなすものである。現象を唯物論で見たとき、メディア界が神秘主義的に発現するのである。この神秘主義性に、観念の枠を与えて、霊・スピリットが想定するのである。ここには、精神の弱さがあるのである。唯物論の反動としてのオカルティズムがあるのである。カント以前である。
 もう少し説明すると、近代合理主義によって、心身性が排除されて、潜在意識となる。即ち、近代合理主義/潜在意識という二元論が近代主義において生じるのである。例えば、近代合理主義とロマン主義の対立というような形をとるのである。(近代とは、プロトモダンが本来なのであり、近代主義とは、反動態である。)この潜在意識を、オカルティズムは、霊・スピリットとして現象化するのである。ここがポイントである。潜在意識の現象化である。即ち、潜在意識に、現象界の視点である連続・同一性の枠・構造を与えるのである。ここには、倒錯があるのである。連続・同一性の形式とは物質形式・唯物論形式である。これを、潜在意識(心身意識)に当てはめるのは、当然、カテゴリー・エラーであるし、虚偽、本当の狂気である。これは、近代合理主義信仰の倒錯である。近代合理主義を、潜在意識にまで、適用するという、ハイパー近代合理主義なのである。これが、正に、ルドルフ・シュタイナーの霊学・人智学である。また、半田広宣氏のヌース理論も、同様である。ハイパー近代合理主義信仰・崇拝である。(こう考えると、ヌース理論が、量子力学等を偏重する理由が了解できるだろう。)即ち、近代合理主義・唯物論化された潜在意識・心身意識が霊・スピリットなのである。これは、似非実在である。妄念・妄想・邪念・狂気である。だから、当然、邪悪なのであるから、社会に対する害悪である。哲学的には、差異が、連続・同一性化されているのであり、ファシズム全体主義的である。(近代合理主義もファシズム全体主義的であるが、西洋の場合、基礎に個・差異があるので、ファシズム全体主義への根強い批判がありうる。)
 とまれ、ポスト・オカルティズム、ポスト・霊学ということで、差異、それも、純粋差異、不連続的差異、特異性差異、単独的差異、絶対的差異を取り戻さないといけない。これは、実に、イデアの純粋世界・真世界なのである。イデアと霊・スピリットとはまったく似て非なるものである。霊・スピリットとは、唯物論神秘主義(参照:中沢新一の霊的唯物論)であり、イデア唯物論的大曲解・ねじ曲げ・歪曲化である。ロゴスに対する、いわば、大犯罪である。極悪である。極刑に値するのである。
 イデアを正視しないといけない。イデアのロゴスを取りださないといけない。イデア・ロゴス・ソフィアである。イデア・レゾナンス・シナジー・コスモスが、原現象である。プラトンで言えば、コーラである。コーラ・コスモスである。
 とまれ、イデアシナジーが心身・潜在意識を形成しているのである。そして、いわゆる、意識とは、作業仮説として、イデアシナジーの意識ではないだろうか。そして、身体とは、イデアシナジーの身体ではないだろうか。フッサール理論を用いると、ノエシスノエマというイデアシナジーが、心身である。つまり、ノエイス/ノエマの共振多層重層シナジーが、心身ではないだろうか。そして、ここから、ノエシスが特化して、意識・思惟・知性・認識・知覚となり、また、ノエマが特化して身体・延長・存在となっているのではないだろうか。本来、イデアシナジーにおいては、ノエシスノエマ=心身=潜在意識である。しかし、これが、現象界においては、二元論的に分離するように発現するのである。ここでは、視覚的知性が、二元論分離仮象の契機である。光が契機である。しかしながら、光は微妙な現象である。光は、イデアシナジーそのものであると言えるのであるからである。原光・純光である。この原光・純光が、光現象となっているのである。そして、二元論分離を発現するのである。光現象・二元論分離現象とは、連続・同一性的仮象であり、原光・純光の仮象としての光が現象していると言えるだろう。つまり、光とは、太陽光とは、仮象スクリーン・マーヤーである。その真実在は、原光・純光なのである。つまり、「阿弥陀如来」である原光・純光を光と見ていることになる。(因みに、光子とは、原光・純光を仮象物質スクリーンを介して仮想したものである。)
 問題は、いわゆる近代自我と光との関係である。あるいは、原光と光との関係である。この問題に関しては、まだ結論が出ていない。即ち、単純に、流出的に、原光から光が仮現するのか、それとも、否定・排除的(内的抑圧隠蔽的)に、原光から光が発現するのか。(この問題は後で、再検討したい。)
 本論に戻ると、ノエシスノエマが二元論的に分離して、心身二元論、思惟と延長の二元論が発生するのであある。しかし、イデアシナジー界においては、ノエシスノエマであろう。即非でもないだろう。思惟即延長である。知即存在である。即非は、差異と差異との関係で発生するものである。
 結局、知性となったノエシスと身体となったノエマとを再統一する必要があるのである。それは、知性の身体化であり、身体の知性化である。しかしながら、ポイントは、知性であろう。なぜならば、基本的には、ノエシスノエマとは、知的存在であり、知主存在従であるからである。知が先行していて、結果、存在が帰結するのであるから。ノエシスノエマ、知→存在なのである。だから、知性の身体化/身体の知性化において、主体は、知性に置くべきなのである。これによって、イデアシナジー=心身性を意識化できるようになるのである。超知性化と言ってもいいだろう。そう、超越内在(超内)論的知性形成である。これが、イデアシナジー知性である。あるいは、イデア知性である。あるいは、プロトモダン知性である。プロトモダン合理主義である。これは、身体ともにある知性であり、知性とともにある身体である。そして、超知性がそれを包摂するのである。
 ここで、自我を考えると、それは何か。近代合理主義においては、近代自我=連続・同一性自我によって所有された身体があるが、この近代自我を不連続的差異化することで、イデアシナジー的特異性意識になるのでないだろうか。思うに、自我は、知存在になるのである。知身体と言ってもいいだろう。自我が知身体へと変容するのである。
 さて、最後に、途中で置いておいた問題、原光と光の変換力学について考察しよう。これは、カントの超越論的形式に関わる問題である。あるいは、アインシュタイン相対性理論に関わる問題である。数学の問題でもある。近代合理主義は、現象を、連続・同一性の数量に変換したのである。そして、近代科学・技術・資本主義が発達するのである。この連続・同一性がカントの超越論的形式に相当しよう。これは、差異=微分積分と等価である。
 ここでも、直観に基づいて述べよう。連続・同一性=数量が物質の単位である。つまり、現象対象に対して、近代合理主義・近代自我は、連続・同一性=数量を適用して、現象世界を「合理」化するのである。そして、この近代科学の合理主義に対して、フッサールは、危機を覚えて、現象学を創造するのである。
 問題は、現象世界である。近代合理主義自我は、現象世界を、連続・同一性=数量形式の体系・システムと見る。それは、また、連続・同一性=数量=近代自我の世界である。ここでは、特異性は消されている。(そう、ここは、近代合理主義というファシズム全体主義の世界である。小泉政権がこれである。)特異性・不連続的差異・絶対的差異・単独的差異の抹消された、同質性・画一性・一般形式の世界である。ここには、明らかに、反動暴力があるのである。特異性を抹消・隠滅している暴力があるのである。(ここで、私は、ジョージ・オーウェルの『1984年』の情報隠滅・捏造作業等を想起している。)
 即ち、連続・同一性には、特異性に対する暴力が如実に存在しているのである。では、現象世界について考察しよう。現象世界の連続・同一性数量・数式を適用するのが、近代合理主義・近代自我・近代科学技術・近代資本主義である。そして、現象世界を連続・同一性のシステムに変換するのである。これが、近代的世界観である。ということは、現象世界自体は、連続・同一性ではないということになるだろう。連続・同一性の構造を現象世界は、いわば、人間から付与されたのである。この主観的形式が、カントの超越論的形式だと考えられるのである。そして、これは、言語形式と深く結びついているだろう。なぜなら、言語形式は、現象を連続・同一性である一般観念形式へと記号化されたものだからである。貨幣も同様である。
 ここで、明確に言えば、現象世界とは、本来、特異性の世界なのである。(私自身は、常に、現象個体は特異性であると考えているのである。)そして、フッサールの説く生活世界とは、この特異性の現象世界のことであろう。つまり、イデアシナジーの世界である。ということは、現象界は本来、イデアシナジーの世界であるが、それを近代自我は、連続・同一性システムの世界に変換しているのである。ということは、差異共振界の直截的発露、流出としての現象界が本来あるということである。共振の終点としての現象である。
 しかし、それに対して、連続・同一性的「現象界」があるのである。それは、近代自我の「現象界」である。一体、この連続・同一性はどこから発したのだろうか。イデアシナジー、差異共振の流出としての現象は、連続・同一性をもたない。そう、連続性はあるが、それは、特異性の連続性である。差異共振の連続性である。
 結局、同一性はどこから生まれたのだろうか。それは、形相から生まれと思われる。形相自体は、不連続的差異論でいうメディア界の現象面にある連続様態、即ち、超越論的原型から生まれたと考えられるのである。即ち、超越論的形式から現象的形式としての形相=同一性が生まれたと言えよう。そして、近代主義とは、この同一性の数量化を意味するのである。つまり、連続・同一性とは、既に、アリストテレス哲学に存在していたのである。だから、近代合理主義が生まれるには、これを数量化する必要があったのである。つまり、アリストテレス哲学と数学の結合、これが、近代主義を生んだと言えよう。そして、これが、物理学を初め、近代自然科学として展開するのである。また、同時に、実験を提示しなくては不十分である。実験が、連続・同一性の物質主義を確証していったと言えるのであるから。
 とまれ、形相と数量と実験の結合、これが、連続・同一性の数量=物質を生んだのである。
 さて、ここで、形相について言及すると、それは、超越論的形式から現象化したものである。根源は、超越論界、不連続的差異論のメディア界に存する。しかし、これは、メディア界の連続面・現象面にある。だから、ここにおいては、それは、イデア面と分離していないのである。即ち、イデアシナジー性をもつ原型である。そして、これが、このまま、現象化して、特異性の現象となるのである。
 では、超越論的原型がどうして連続・同一性の形相へと変換されるのか。ここに、もっとも重大な転換の一つがあると言えよう。形式の、超越論界から現象界への転換である。超越論界(=イデアシナジー界=メディア界)には、差異共振性がある。そして、超越論界の形式を形相化するには、この差異共振性を否定・排除する必要があるのである。ここが、一番のポイントである。思うに、問題は、連続・同一性ではないのかもしれない。問題は、連続・同一性中心主義だと考えられるよう。例えば、私の使用するコーヒーカップは、特異性でありつつも、コーヒーカップという連続・同一性である。ここでは、特異性と連続・同一性が矛盾せずに、併存しているのである。特異性→連続・同一性である。
 しかるに、連続・同一性中心主義になると、特異性を排除するのである。これは、いったい、どういう事態なのだろうか。何故、特異性・不連続的差異性を否定・排除するのか。
 思うに、作業仮説であるが、光と関係する。差異共振シナジーにおいて原光が生まれる。そして、それが、連続化するときに、原型が生まれる。これは、ほぼ現象界の光をもつ連続・同一性である。つまり、このときに、視覚が生まれているのである。視覚と連続・同一性との相互関係があるのである。しかし、差異共振シナジー界=メディア界においては、闇と光が不可分一体である。つまり、原光=闇と光とが一如である。しかし、視覚/連続・同一性が言語習得と結びつくと、視覚/連続・同一性/言語=光は、闇と分離する傾向をもつだろう。つまり、光の欲望が発生して、それが、闇を排斥するようになるのだろう。これが、連続・同一性中心主義の発生、一神教の発生、父権主義の発生であろう。差異共振シナジーの闇は忌み嫌われて、否定・排除されるのである。これが、西欧近代自我合理主義である。換言すると、原光→ 光が、「断絃」されて、原光と光が分離されるのである。闇と光の分離である。ゾロアスター教の発生である。そして、ここから、ユダヤ教キリスト教と続くのである。イスラム教は、差異共振性への揺り戻しを含むと思うが、基盤は、やはり、分離である。
 結局、不連続的差異論/プラトンシナジー理論は、この闇と光の分離を、イデア・レゾナンス・シナジー・フィールドの発見によって、解消して、新たに、結合・融合・一体化したと言えよう。新東洋哲学である。ル・ルネサンス=プロトモダンの新生である。そう、ここでは、闇と光が一体となっている。闇から光が生まれのである。原光=闇から光が生まれるのである。そして、闇は光であり、光は闇である。これは、私の直観にぴったりである。キリスト教の闇を照らす光という二元論とはまったく別である。キリスト教の光とは、闇から分離した光であり、連続・同一性中心主義の光、悪魔の光なのである。
 初めに闇ありき、そして、光が生まれた。また、闇の前に原闇があった。それは、無である。