光の利己的欲望:差異共振という玄光を否定・排除した連続・同一性中

光の利己的欲望:差異共振という玄光を否定・排除した連続・同一性中心主義という光悪魔


今は簡単に触れるが、どうして、連続・同一性主義自我は、他者を否定して、自尊感情を高める快感をもつのか。問題は、この自尊快感の発生の原因である。これは、攻撃的快感でもある。感情が、観念と癒着・融合している状態である。自己陶酔ではあるのだが。
 先に、連続・同一性が、言語と結びつき、差異共振の闇を排除するという一神教父権制/近代自我の構造を提示した。これを光の欲望を呼んだ。これは、視覚的同一性中心主義自我意識と、無意識となった身体との分離とも言えよう。西欧近代は、前者中心の世界観であり、後者が忌避・排除されたのである。現代日本は、この究極的な帰結のようなところがあるのである。欧米は、前者的ではあるが、後者を何らかの形で保持しているように思えるのである。とまれ、この2項対立構造については、既述済みであるが、再度検討して、確認を新たにしよう。
 もともとは、差異共振と連続・同一性は、メディア界においては、いわば、メダルの両面である。だから、2項対立していはいないのである。闇と光の両面である。しかし、光が言語と結びついて、とりわけ、文字言語・表音言語と結びついて、2項対立が発生すると考えられるのである。その理由は、言語と結びついた連続・同一性は、差異共振性から切断されるからと考えられる。即ち、言語と結びついたときに、それは、いわば、モナド化されると思うのである。例えば、現象視覚において、山を知覚していたとき、山という連続・同一性は、他者(例えば、空や雲や太陽や星や月や川や鳥や獣や平野等、もちろん、人間)と差異共振するコスモス・自然・宇宙の一部であったと考えられるのである。(これは、多くの詩人が表現することである。)これは、母権文化の知覚であると考えられる。陰陽対極性は、この文化哲学であると考えられよう。
 しかしながら、象形・表意文字の「山」、表音文字の「やま」が使用されると、それは、差異共振のコスモスから切断されるのである。「山」は、まだ、現象視覚性が残存しているので、差異共振コスモスとの結びつきが比較的残りやすいと言えようが、「やま」ないしyamaになると、結びつきから離れて、独立する傾向をもつと言えるだろう。つまり、連続・同一性が差異共振性から分離・切断されて、抽象文字的連続・同一性となったと言えよう。この分離・切断の意味するものを考察しないといけない。ここには、差異共振性に対する否定があり、連続・同一性の独立化、言わば、独立自我化が生起しているといえるだろう。そう、原コギトの成立と言えるかもしれない。この差異共振性の否定と独立自我化が、連続・同一性を連続・同一性中心主義へと相転移させるものと言えよう。これが、原一神教・原父権制・原近代自我の発生であろう。(現代文明とは、この抽象文字人類革命の帰結であると言えよう。差異共振性というコスモス・自然宇宙から切り離されて、グローバル資本主義・科学技術文明を、性懲りもなく、自殺自滅的に、「発展」させ続けているのである。これは、もはや、発展ではなくて、滅亡過程と言うべきであろう。終局相であろう。)
 とまれ、これで、本稿の問題を解いたこととしよう。私が既述したように、連続・同一性中心主義とは、連続・同一性と言語、とりわけて、表音文字との結合によって生まれたのである。それは、自我・悪魔性の誕生である。光である悪魔であり、ここで、真の光である差異共振性が闇=悪魔にされたのである。価値転倒・倒錯が発生したのである。これは、キリスト教に完全に顕在したものである。光が闇とされ、闇が光とされたのである。キリスト教の光は、反復するが、悪魔の光であり、闇である。かつて昔、10代の学生の頃、私は、「光は暗く、闇は明るい」と言った。
 現代日本の闇は、正に、この連続・同一性中心主義という光の闇である。これは、光悪魔である。たいへん、危険なものである。しかしながら、不連続的差異論/プラトンシナジー理論によって、この光悪魔の闇が暴れて、真の光への方向が啓かれたといえよう。初めに玄光あり、そして、それは、光であった。

p.s. 日本の問題は、日本語の構造に関わっていると考えている。日本語は主語の問題がある。欧米語から見ると、主語の存在があいまいである。私の考えでは、日本語には、主客一如の認識に基づく構造が深層・基層・古層として存している。以前、言及したが、例えば、「鳥のさえずりが聞える。」を考えると、英訳すると、I hear a bird (or birds) singing. となり、I(わたし)が入らなくてはならない。「聞える」という表現は、鳥のさえずりの聴覚知覚において、鳥のさえずりと、わたしの知覚とが一如・一体であることを意味していると思うのである。つまり、主体と客体が、聴覚知覚(「聞える」)において、一つになっているということである。これを、主客一如、主客一体、主客合一、等と呼ぶのである。
 そして、この意識は、プラトンシナジー理論では、差異共振意識に相当すると思えるのである。しかし、果たして、現代日本人に差異共振意識が存しているのか疑問であるが、しかしながら、潜在的には、差異共振意識は、欧米人に比べて、比較的に豊かには、存在しているように思えるのである。しかし、実際のところは、連続・同一性中心主義が差異共振意識を、強く排除していて、倒錯的になっているのが、現代日本人の意識の実情ではないのだろうか。たいへんな危機である。