連続・同一性中心主義自我の他者否定志向について

連続・同一性中心主義自我の他者否定志向について:差異共振言語・社会と同一性中心主義言語・社会


同一性自我の言語化によって、差異共振性から切断されると言った。
 では、言語化とは何か。例えば、私の目の前のテーブルの上に、コーヒーカップがある。私の現象視覚において、コーヒーカップは、連続・同一性である。しかし、これが、コーヒーカップという言葉によって、いわば、連続・同一性・言語化されると、それは、連続・同一性中心化するだろう。そう、物となるのである。現象視覚におけるコーヒーカップは、連続・同一性でありつつも、私との差異共振性をもちうるものである。即ち、私とコーヒーカップとのコスモスの形成がありうるのである。これは、イデアシナジーであり、量子力学的には、量子の場である。しかし、イデアシナジーと量子は全く異なる次元の事柄である。(ヌース理論は、これを、一致させてしまっているのだ。)
 問題は、言語化の意味である。ここでは、差異共振性を排除する、同一性中心言語がある。差異共振性を否定し、排除する言語の意志とは何かということでもある。(フロイト死の欲動と言ったが、それは、わかったようで、わからない説明だろう。なにか、神秘めかした概念だろう。)言語化とは、簡単に言えば、観念化ということである。現象視覚における個体は、連続・同一性現象ではあっても、観念ではない。言語化によって、観念化されると言えよう。そして、この言語観念化が、現象視覚対象の物体化・物質化をもたらすのだろう。つまり、観念論と唯物論は、等価なのである。あるいは、オカルト主義と唯物論は、等価なのである。カントの超越論的形式も、言語観念論=唯物論の形式を意味するだろう。
 この言語観念形式化とは、何なのだろうか。これは、連続・同一性中心主義の完成である。差異共振性を否定・排除・隠蔽した様態である。ここには、連続・同一性中心主義の優位性という発想がなくてはならないだろう。ここには、連続・同一性の言語観念への同化・同一性化があるように思える。つまり、現象視覚において、連続・同一性である、例えば、コーヒーカップがある。しかし、この連続・同一性が、言語観念へと同一化するという事象が、連続・同一性中心主義の発生であろう。現象事象から、言語観念への、いわば、相転移が発生していると思われるのである。これは、思うに、エネルギー変換・転換であろう。差異共振シナジー・エネルギーから、連続・同一性言語観念へのエネルギー変換・転換であろう。思うに、ここには、微分積分という仮想力ではなくて、ある明確な力が作動しているのではないかと思われる。それは、差異共振を否定する同一性中心主義の力である。言語観念の力である。言語観念の暴力だと思う。差異共振エネルギーが、同一性観念暴力に相転移したのだと思う。つまり、同一性中心性になるには、差異共振性を否定・排除する必要があるのである。これが、差異共振エネルギーから変態した言語観念暴力だと思う。フロイトが、孫の糸巻き遊びから考えついた、死の欲動という概念であるが、それは、いわば、比喩的概念と考えられる。母親代わりの糸巻きに対する死の欲動ということであるのだが、ここでの考えによれば、それは、母親やその代用の否定ではなくて、差異共振性を否定する同一性中心主義のための暴力である。
 問題は、何故、言語観念暴力へと転換するのかということである。それは、先に簡単に触れたが、幻想・ファンタジー能力のためのように思える。あるいは、代行・代償・代理能力のためである。言語観念化によって、差異共振的現象性から分離して、連続・同一性中心主義という一種の観念表象(幻想)を得るためである。それによって、現象性に対して、表象幻想的優位に立つのである。人間の根源的狂気とは、ここに存しているだろう。
 しかし、問題は、この言語観念表象の質である。言語観念表象が、差異共振的現象的連続・同一性へ向かうならば、それは、正しい知性となるだろうし、それが、自己に留まるならば、否定的知性となるだろう。能動的観念か、反動的観念かということになるだろう。つまり、差異共振的観念か、連続・同一性中心的観念かである。真の知性とするのか、暴力的知性にするのかである。そして、近代合理主義とは、後者であり、今日、末期的症状となっているのである。言語観念形式と数量が結合した、近代唯物論に陥っているのである。
 ということで、本件を解決したこととしよう。つまり、エネルギーから力(暴力・威力)への変換である。《平和》から《戦争》への相転移である。共生エネルギーから快楽暴力への変換である。(現代日本社会は、正に、小泉政府を筆頭に後者的になっていると言えよう。快楽暴力社会なのである。)
 ここで、不連続的差異論について言えば、それは、この言語観念形式を、絶対的に突き破り、差異共振シナジーの領域に進入したことを意味する。ポスト・カント主義(本当は、これこそ、真のポスト近代主義ポスト構造主義であったろう。脱近代主義、脱構造主義である。)である。


p.s. できれば、以上の考察を整理したい。以上の考察は、言語観念の基本を幻想力と見ているが、思うに、個体主義的発想であり、社会・集合体的発想が欠落している。言語観念の形成が、単に個人主義的なものであるとは到底言えないだろう。他者との関係においての形成を考えなくてはならないだろう。
 おそらく、ノエシスノエマの指し示しを、他者と共有するために、言語が形成されたであろう。そして、文字言語・表音文字化は、自我主義的傾向を生んだと言えるだろう。
 思うに、文字言語・表音文字化は、自我所有・権力主義傾向と平行しているのだろう。おおまかに言って、象形文字や音声言語の世界は、前父権的社会と、表音文字言語の世界は、父権的社会と平行しているのではないだろうか。後者において、差異共振シナジーが否定されて、連続・同一性中心主義自我=父権的一神教の原基が生まれたと考えられる。ならば、前者においては、差異共振的社会=母権社会があり、後者においては、権力社会が成立したと言えるのではないだろうか。
 思うに、言語の意味が、両者では全く異質なものになっていると言えよう。差異共振志向性言語と同一性自我志向性言語である。そして、後者においては、主人と奴隷との権力社会となっていよう。前者は、コスモス的共生社会となっていよう。ただし、ここでは、自我は未成熟である。結局、二つの言語=社会である。差異共振志向性言語=社会と同一性中心主義自我志向性言語=社会である。
 ということで、きわめて粗雑ではあるが、言語と社会との関係を見たとしよう。

p.p.s. 次元・幾何学の問題で言うならば、言語観念化とは、どういうことなのだろうか。ここで、思考実験となるが、X軸ーY軸・虚軸ーZ軸ーF軸ー第5軸(言語観念軸)となるのではないだろうか。そして、Y軸・虚軸が、消去されるのではないだろうか。すると、X・Z・F・第5軸の四次元となる。後で、検討しよう。

3p.s. 次元・幾何学の問題は、これまでの思考実験に拠れば、Y軸が不可視となり、XZFの三次元が形成されるということであった。そして、Y軸が、時間軸である。こちらの方が、明快ではあろう。第5軸を考えると、時間軸が、Z軸となり、XF第5軸で空間三次元となる。しかし、この五次元時空間の考えは、最初の四次元時空間の展開と見ることができよう。ただ、言語観念軸として、第5軸を入れて、整合化しただけである。そして、Z軸・時間軸は、零度軸であるので、やはり、不可視であると言えないだろうか。なお、Y軸・虚軸は、イデア/メディア境界軸であり、零度軸ではあるが、元零度軸である。Y軸とZ軸で、差異共振シナジー平面=メディア平面=超越論平面が形成されているだろう。(内在平面というドゥルーズガタリの術語は、超越論性を内包していない連続主義の概念なので、使用しない。)
 以上のような五次元時空間を考えると、X軸を中心にして、XYZ空間とXF第5軸空間の対称性が生起しているだろう。後者が、現象空間ないし現象時空間であり、前者が、いわば、反世界ではないだろうか。ダーク・ワールドである。玄世界である。あるいは、虚世界と実世界である。しかし、虚世界が実世界の真実在である。これは、宗教的には、他界と現世となるのではないだろうか。あの世とこの世である。彼岸と此岸である。
 では、差異共振シナジー・コスモスとはどこにあるのだろうか。あるいは、差異共振シナジー界とは。それは、当然、YZ平面である。YZ平面に差異共振コスモスがあるだろう。そして、XY平面=イデア平面=ガウス平面とは、超・神の世界だろう。原イデア・祖イデアの世界。玄牝の世界だろう。無・真無の世界である。絶対無の世界である。差異共振シナジー平面が、極性の世界・陰陽世界・イシス/オシリスの世界ならば、イデア平面は、太極世界・玄牝世界・玄世界であろう。絶対的差異の世界。即自的差異の世界。思うに、ここには、窓・「天窓」がないのか。これは、微妙である。1/4回転による零度化で、即非の窓・「天窓」が生じるが、ここではいかに。玄イデアは、モナドなのか。思うに、モナドという概念は、一神教的個体観だと思う。多数の絶縁的個体があり、超越的世界に神があり、それが、それらを予定調和させている。これは、カルヴァン主義ではないが、一種プロテスタンティズムだろう。ここには、現象界と超越界の絶対的二元論の世界がある。
 しかし、玄イデアは、そのような二元論はない。これは、原ミクロ=マクロ・コスモスの世界だろう。原即自且つ対自・コスモスの世界だろう。一つ一つの絶対的差異・祖イデアには、全世界の可能性・潜在性が秘められているのではないだろうか。即ち、絶対的無限性があるのではないだろうか。つまり、一つの祖イデアとは、一つの絶対的無限であり、これらが、無数共立しているのが、イデア界ではないのか。無数の絶対的無限・絶対的差異・祖イデアの共立界としてのイデア界・イデア平面・複素平面ではないのか。