思考実験:プロトモダン現象知覚と近代科学的現象知覚

思考実験:プロトモダン現象知覚と近代科学的現象知覚


この問題は、今一番の問題である。否、すべてのことの核心の問題かもしれない。とまれ、ゆっくり、丁寧に考えたい。
 ここでも、直観を導きの糸として、考察して行こう。山を眺めると、山と私が共振する身体的視覚が生じる。あるいは、青空でもいい。紺碧の空(最近は少なくなったが)を仰いだときも、そうなる。もっとも、あらゆるときにそうなるというのではなく、気象や私のコンディション等によって、異なるだろう。共振しやすい時間、空間、心身状態等があるのである。これは、共振コスモスの「顕現」と言えよう。
 共振コスモス、ないし、共振シナジー・コスモスを理論的に考えることで、多くの、いわゆる、神秘的事象が合理的に説明できるようになったと言えよう。小学生の頃、トタン屋根に寝そべり、青空を眺めて、いわば、青空に溶け込んだような、「エクスタシー」的経験をよくしたものだが、それは、青空と私の心身との共振シナジー経験、共振シナジー・コスモスの形成と言えるのである。また、中学生の頃、田舎の道を、自転車通学していたが、その時、田んぼの稲の緑の「海」と私の心身との溶け合い・融合を頻繁に経験したが、それも、これで、説明できる。決して、神秘的経験ではなくて、差異共振という合理的な経験なのである。芸術のロマン主義も、これで、合理的に説明できるのである。宗教もオカルティズムも、これで、合理的に説明できるのである。だから、ポスト・神秘主義、ポスト・宗教、ポスト・オカルト主義等である。
 この差異共振シナジー経験を、近代合理主義は、否定・排除しているのであり、空間を時空四次元で説明しているのである。しかし、この差異共振シナジー経験を対象にしないといけないのである。差異共振シナジー・コスモスのもつ一体感・一如感を空間的に説明しないといけないのである。
 根本から考えると、知覚・意識・認識とは、不連続的差異・原イデアにもともと存している。いわば、原知覚・原意識・原認識である。それが、1/4回転によって、零度差異共振化すると考えるのである。わかりやすくするために、図式化しよう。


イデア界:差異1/差異2/・・・/差異n


(尚、差異とは、不連続的差異であり、原イデアである。/は境界を表わす。)
これを、意識の問題にすると、


イデア界:原知覚1/原知覚2/・・・/原知覚n



となる。そして、これが1/4回転して、零度差異共振シナジーを形成するのである。即ち、



メディア界:原知覚1☯原知覚2☯・・・☯原知覚n


(尚、☯は差異共振、対極性、即非の記号である。)



このメディア界=差異共振界において、差異共振シナジー経験、即ち、差異共振コスモス経験が生じると言えよう。つまり、この時、「わたし」は、虚軸を直観しているのではないだろうか。あるいは、少なくとも、虚軸的経験をしていると言えよう。ここでは、遠近法的視覚、三次元的空間視覚が役立たないのである。対象と「わたし」が、一体となっているのであるから。即ち、距離が消滅しているのえあるから。しかしながら、完全消滅ではなくて、即非的な一体感的距離消滅ではないだろうか。それが、正しいと考えられる。「わたし」は、例えば、原知覚1であり、対象「山」の原知覚2と即非的一体(差異共振)となるのである。【ここで、注意すべきは、対象「山」にも原知覚があることである。これは、アフォーダンス理論を説明するものではないだろうか。また、対象が見ているという感じを説明できるだろうし、また、「地霊」spirit of place又はgenius lociを説明できるだろう。対象は、原知覚をもっているからである。また、道元の「山は流れ、川は止まっている」という言も説明できるだろう。つまり、山と川とが一体となるため、山は川を映し、川は山を映す、即ち、相互反照が成立することを意味していよう。】
 では、通常の距離空間は、距離次元はどこにあるのだろうか。差異共振コスモスが虚軸(ないしメディア平面:これは、Y軸とZ軸に直交平面である)にあるとすれば、「わたし」と対象「山」との遠近法の空間はどこにあるのだろうか。虚軸(Y軸)は、零度の軸ではあるが、不可視の軸であり、これは、通常の視覚空間にはない。距離が発生している軸や空間はどこなのか。それは、現象の軸や空間である。思うに、差異共振シナジー・コスモスは、三次元現象空間ないし四次元現象時空間においては、どこでも発生するだろうから、三次元ないし四次元に対して、直交していると見ることが出来るだろう。
 では、X軸、Z軸、F軸(第四の直交軸)が三次元空間なのだろうか。先に、第五軸を入れて、五次元空間を考えたが、しかし、Z軸を連続軸にすれば、第五軸は要らないのかもしれない。つまり、Z軸は、連続・同一性が発生する現象軸なのである。しかし、この現象は、差異共振シナジーの半面に過ぎないのである。換言すると、Y軸・虚軸が、差異共振シナジーイデア/メディア境界(これまで、イデア面と言ったが、不正確であった)であり、Z軸が、メディア/現象境界である。そうすると、「わたし」は、日常において、Z軸上で、「山」を見ているのである。Z軸を現象軸と呼べば(Y軸は、メディア軸と、X軸は、イデア軸と呼べよう)、現象軸において、「わたし」と「山」が距離をもって現象していることになろう。図式化すると、


Z軸・現象軸:


原知覚1(「私」)−原知覚2(「山」)ー・・・


であり、ー(ダッシュ)が、同一性であり、原知覚1と原知覚2において、距離を形成するものである。そして、このとき、原知覚は、連続化されているので、原知覚2は、対象=客体「山」となっているのである。ー(ダッシュ)は、光速度の一定に原理をもつ距離となるだろう。相対性理論は、ー(ダッシュ)を理論化したものであると言えよう。
 これは、Z軸・現象軸上の事態である。しかるに、差異共振シナジー・コスモス事象において、「私」と「山」とは、Y軸・虚軸上に存していると言えよう。つまり、差異共振シナジー・コスモス経験において、「私」と「山」とは、直交的に深化して、Y軸・虚軸に移動しているということであろう。あるいは、ZY平面に移動していると言えよう。これは、現象界の光速度cではなくて、差異共振界の光速度c/iを帯びるのだろう。
 しかしながら、正確に言えば、言語同一性中心軸が必要であろう。これが、F軸(第四軸)と考えられよう。いわゆる、物理的距離は、F軸がなくては、生じないのでないだろうか。だから、「私」と「山」の物理的距離とは、本当は、F軸上にあると言えるだろう。F軸が連続・同一性中心軸であり、今日、これが、視覚の次元となっていると言えるだろう。図式化すると、


F軸:同一性中心軸


同一性1(「私」)ー同一性2(「山」)ー・・・ー同一性n


である。このF軸が近代合理主義、近代自我の軸である。直観の軸は、Z軸である。そして、これは、Y軸・虚軸とつながっているのである。即ち、F軸とZ軸とのズレが存しているのであり、カントは、前者の超越論的形式としてZ軸を理論化したと言えよう。しかし、その後、近代科学は、Z軸を忘失して、Z軸による理論をF軸の理論と幻想しているのである。
 ここで、思考実験すると、FZ平面が、近代主義平面であり、ZY平面が、フッサールの生活世界ではないだろうか。根源的な芸術家や哲学者や民衆は、この平面に生きているのである。そして、思考停止した国民は、F軸に生きていると言えるだろう。小泉政権は、KAISETSU氏の考えを借りれば、Z軸(=超越論的形式=構造主義)に存していると言えるのだろう。
 では、現象三次元空間や現象四次元時空間をどのように見たらいいのだろうか。ここで、作業仮説的に、F軸を時空軸としよう。即ち、連続・同一性中心主義的時空軸である。これが、近代知覚であるが、これが、三次元ないし四次元を構築・仮構すると考えられるのである。ここで、また、作業仮説すると、F軸はいわば、主観軸であり、これが、投影されて、三次元ないし四次元を仮構・仮象・幻像するではないだろうか。だから、F軸は空間軸に入れないのである。いわば、視点軸である。これが、思うに、XYZ直交軸に投影されて、三次元ないし四次元を仮構するというのは、考えられないことではないだろう。左右・前後・上下は、F軸から自由に設定できるだろう。宇宙空間を考えればいいだろう。X軸が、左右でも、前後でも、上下でもかまわないだろう。後、同様である。
 問題は、重力軸である。地球上では、一義的に決定される。これが、Z軸ではないのか。ここで、アナロジー的に考えると、X軸が無軸で、Y軸が光軸で、Z軸が重力軸で、F軸が幻像(マーヤー)軸となるのかもしれない。
 さて、ここで、相対性理論量子力学に簡単に触れると、相対性理論は、Y軸のZ軸への、いわば、写像を理論化しているのではないのか。量子力学は、Y軸の事象とZ軸の形式との、無理なつじつま合わせをしているのではないのか。無理というのは、即非事象を連続形式で説明しようとしていることである。不連続なガウス平面から形成される事象を、連続形式で把捉しようとしているのではないのか。複素数事象を、実数事象で把捉しようとしているのではないのか。本来、量子力学が対象にしている事象は、不連続的差異の存するガウス平面事象であるが、それを、連続・同一性事象として捉えようとしていると思うのである。ここには、カテゴリー・エラーがあるだろう。
 ついでに、ダークエネルギー等の問題に触れると、それも、同様であり、不連続的差異の複素平面上のエネルギー事象を、連続・同一性事象のエネルギーから把捉しようとしているので、前者を、ダークエネルギーと考えようとしているのであると言えよう。発想を転換しなくては、現代物理学は行き詰まりを打開できないだろう。自然科学の不連続的イデア論化が、唯物論からのパラダイム・シフトとなるだろう。ポスト唯物論である。新イデア論的自然科学の誕生となる。不連続的イデアとは、原知的生命体と言えるだろう。哲学・科学的に、多神教アニミズムシャーマニズム、汎神論が甦るだろう。ポスト西洋文明・新東洋のエポックとなるだろう。
 
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■QUINTESSENCE:虚軸・Y軸について

これは、別稿で、考察したいが、ここで、簡単に触れると、X軸ーZ軸ーF軸の三次元空間ないし四次元時空間が、現代科学の空間となっている。これが、実に、閉塞空間だと思う。
 虚軸・Y軸が実在しているのであるが、それが、正に、不可視の次元にあるのである。というか、超越論的次元にあると思うのである。内在的次元ではない(ドゥルーズガタリの内在平面の考え方は間違いだと思う)。
 超越論的次元・虚数次元を
思考しないといけないと思う。これこそ、真の第四次元だと思う。あるいは、第五次元と呼んでもいいだろう。そう、QUINTESSENCEである。「第五元素」である。しかし、元素という表現はよくない。第五次元が正しい。20世紀初期において、四次元思想が流行したが、これは、正に、この次元である。これが、相対性理論の四次元時空間の考えに、吸収されてしまったと言えよう。しかし、第五次元は、時間次元ではない。そう、わかりやすく言うと、超越次元である。
差異共振シナジー・コスモスは、この超越次元にあるだろう。それは、精神次元と言ってもいいのだろう。
renshi (2006-07-22 23:43:05)