零度差異共振とは何か:差異と同一性の関係性についての考察

零度差異共振とは何か:差異と同一性の関係性についての考察


これは、例えば、差異(不連続的差異)1と差異2とが、零度で、共振するということであり、このとき、差異1と差異2とは接していると同時に、接していないという、相反した事象にあるのである。これは、鈴木大拙即非の論理の事象であると言える。後に、ドゥルーズガタリが、離接という概念を提起したが、同じ意味のものであると考えられる。有り体にいえば、後者は二番煎じである。
 この共振事象ないし共振シナジー事象は、きわめて、不思議なものである。現象界の二項対立的論理を超越した論理である。差異1=差異2、且つ、差異1≠差異2である。イデア界からの順序に即せば、差異1≠差異2、且つ、差異1=差異2である。換言すると、差異1=非差異1である。A=~Aである。これが、差異共振事象の本性・実体であり、差異共立とも呼んでいいのであるが、イデア界の差異共立と混同してはいけない。後者においては、零度共振はなく、境界に隔てられた絶対的差異の共立があるだけである。混乱を避けるために、イデア界の差異事象を、差異分立と呼んでもいいだろう。
 さて、差異共振事象であるが、一方、即ち、差異共振界(=メディア界)のイデア極においては、差異分立性があり、他方、現象極には、差異連続・同一性(明快にするため、差異同一性と呼びたい)があると言えよう。だから、差異共振界(略して、差共界)では、差異分立性と差異同一性との矛盾事象が生起していると換言できる。前者を特異性・単独性と呼ぶことができるし、後者は単に同一性と呼ぶことができるだろう。特異性と同一性との矛盾共立が生起しているのである。因みに、ドゥルーズ哲学は、この矛盾共立を直接反映した哲学であると言えるのである。即ち、特異性としての差異と微分としての差異とを含んだ差異哲学なのである。しかし、これまで、言い尽くしたように、両者を混同しているのである。この混同が、差共界の矛盾共立・矛盾同一の直接的反映を意味しよう。わかりやすく言えば、差共界の矛盾同一事象に没入しているのが、ドゥルーズ差異哲学であると言えよう。没入しているので、自身が揺れ動いているのが、自覚できないのである。そのために、差共界の、謂わば、自然過程に陥っているのである。即ち、連続・同一性過程である。【ここで、想起したのであるが、ヌース理論は、正に、「精神」の連続・同一性化の理論なのであるが、差共界のもつ連続・同一性自然過程に没入しているのではないかと思ったのである。おそらく、そうであろう。素朴な差共界の様態は、連続・同一性への自然過程であると考えられる。そして、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」であるが、これもこの事象を説いていると考えられる。】
 ということで、差共界について、整理する必要があるだろう。不連続的差異論は、差異の根本・基本的な不連続性を発見した、ないし、仮説するものであり、差異の不連続化によって、不連続的差異の共立するイデア界が発見できたと考えられるのである。それまでは、差共界の自然過程のままに、連続・同一性に拘束されていたのであり、反動化が免れなかったのである。差異の不連続化、即ち、差共界の不連続化によって、この連続・同一性化=反動化の拘束から脱却できたと言えるのである。(言い換えると、真の社会革命が可能になったのである。)連続・同一性の束縛を切断したのである。即ち、不連続的差異の共立するイデア界に回帰することにより、差共界の連続・同一性の桎梏・束縛・拘束・規定・構造(カントの超越論的形式)を解体・破壊・解消して、差共界を変容したと言えるのである。差共界の変容とは、何か。不連続的差異化、イデア界への回帰による差共界の変容とは何か。それは、連続・同一性自然過程を解体・脱構造化したことである。それは、また、連続・同一性である自我の解体・破壊・脱構造化と言えるだろう。自我が、とりわけ、近代自我が、仮象・仮構であることを明らかにしたのである。「わたし」とは、自我ではなくて、差異・特異性であること、そして、根本的には、不連続的差異、絶対的差異であることが、判明したと言えよう。自我が、差異・不連続的差異に還元されたのである。イデア界に回帰したのである。
 その結果の差共界の変容とは何か。連続・同一性化が解体されて、今や自我が消滅したのではないだろうか。つまり、連続・同一性過程において、自我、とりわけ、近代自我が成立するのであるが、連続・同一性過程が解体されたとなると、差共界は、もはや、連続・同一性過程を形成しなくなるのである。即ち、連続・同一性自然過程から解放された差共界の成立・形成・創造である。これが、差共界の変容・変成である。連続・同一性の現象界からの解放である。連続・同一性の「力」からの解放である。そして、差異共振シナジー・エネルギーの解放であろう。差異共振エネルギーが、これまで、連続・同一性を形成する「力」になっていたのだが、それが、それから解放されて、純粋な差異共振シナジー・エネルギーとなるということである。完全な零度共振が可能になるということだろう。即非論理の貫徹がここに発生すると言えよう。差異共振シナジー世界が、いわば、現象化すると言えるだろう。
 では、不連続的差異化以前において、連続・同一性自然過程の「力」とはいったい何なのであろうか。私の直観では、捩れを感じさせるのである。差異否定の「力」である。連続・同一性の極において、おそらく、言語化が発生するのである。そして、連続・同一性が、謂わば、固定・固着・凝固するのである(連続・同一性中心主義の成立)。この連続・同一性極の言語的石化によって、連続・同一性中心主義=自我中心主義が発生すると言えるだろう。そして、これが、差異・他者を否定・抑圧・排除・排斥・排出・隠蔽すると考えられるのである。暴力の誕生である。父権制暴力の誕生である。戦争の誕生である。帝国主義の誕生である。(そして、現代、西洋文明として、この父権的暴力の帰結を迎えているのである。)結局、連続・同一性自然過程の「力」とは、連続・同一性のエネルギーの言語的固定であった。
 では、不連続的差異論/差異共振シナジー理論(新プラトンシナジー理論)によって、純粋な差異共振シナジー・エネルギーが解放されることは何を意味するのか。当然、帝国主義の解体、国家主義の解体、自我中心主義の解体、等である。一つの人類史、父権的人類史の終焉である。ポスト人類史、ポスト父権的人類史、ポスト西洋文明である。当然、ポスト一神教である。ポスト資本主義である。新コスモス文明への駆動と言えよう。そう、純粋・純正差異零度共振シナジー・エネルギーとは、新コスモス・エネルギーと言えよう。