現象知覚の問題:三次元空間と精神空間

現象知覚の問題:三次元空間と精神空間


テーマ:新イデア・共振シナジー理論


現象から出発して考えよう。
 「わたし」は、木立を見ているとしよう。その木立は、三次元で空間記述できるだろう。しかし、時間次元を考えると、それにプラスしないといけない。木立の枝の葉を考えよう。それは、今は、緑で、みずみずしく繁っている。しかし、秋になれば、紅葉したりして、落葉して、枝にはもう葉がなくなる。しかし、来春になれば、再び、葉をつける。
 この葉の生成消滅を考えると、葉の「イデア」のようなものを想定できるだろう。今では、ゲノムの解明で事足れりとしているが、それは、物質主義的説明に過ぎないだろう。私は、現象から考えたいのである。
 空間三次元の他に、時間の次元を想定しよう。ここから、エネルギーが発生して、葉を生成消滅させるのである。この時間次元は、内在超越(論)的次元であると考えられる。なぜなら、それは、現象においては、知覚されないからである。結局、現象次元は、空間三次元+内在超越次元の四次元ないし時空四次元である。
 ここで、内在超越次元について考察すると、そこに、空間三次元における葉の現象を発生させている原因があると言えよう。とりあえず、葉の原型次元と呼ぼう(内在超越次元、メディア次元、精神次元、等と呼べるだろう)。ここでは、葉の原型である差異共振シナジー事象が存している。明快にするために、差異共振シナジー原型(類型)と呼んでおこう。ここでは、エネルギーが発生しているのである。極性エネルギーである。プラスとマイナスである。そして、プラス・エネルギーが発動して、原型、この場合、葉の原型が現象化すると言えよう。即ち、葉の差異共振シナジー原型が連続・同一性志向性をもち、三次元空間に現象するのである。
 思うに、葉の原型の連続・同一性=現象化とは、三次元空間として葉を現象させるということである。つまり、四次元時空間として、葉を現象化させるということだろう。しかし、これは、原型のプラス・エネルギーの結果である。結果としての四次元時空間である。
 問題は、生長エネルギーである。差異共振シナジー・エネルギーと生長エネルギーの関係である。思うに、前者は、いわば、瞬間的に発生するだろう。ゼロ時間である。それに対して、後者は、継起するのである。これは、時間の発生に拠ると言えるのではないだろうか。つまり、光の発生に拠ると言えるだろう。E= mc^2である。メディア界から現象界への変換は、無限から有限への変換である。内在超越次元から時空四次元への変換である。これは、ガウス平面から時空四次元への変換と言えるのかもしれない。ガウス平面の虚軸が、内在超越次元である。ここで、差異共振シナジー事象、原型事象が発生しているのである。ここから、極性エネルギーが発生して、現象化が生起する。しかし、現象エネルギーは、いわば、光のエネルギーであり、極性エネルギーとは異なるだろう。そう、極性エネルギーは虚エネルギーであり、光のエネルギーは実エネルギーではないだろうか。確かに、虚軸の次元の事象であるから、虚エネルギーであろう。(思考実験では、mc^2/i であった。)
 以上のように考えると、内在超越次元とは、複素平面の二次元でいいのではないだろうか。これが、時空四次元現象となると言えるのではないだろうか。そして、時間軸であるが、それは、仮想的ではないだろうか。虚軸が原時間軸であり、おそらく、これが、時間軸と言えそうである。つまり、時間軸は、仮想的であるが、虚軸が時間軸である。だから、現象界では不可視なのである。先に精神時間次元と言ったが、正にその通りであろう。
 だから、時空四次元とは、正しくは、空間三次元+内在超越時間次元という意味の四次元である。20世紀初期に芸術や思想で四次元が流行したが、四次元とは、この内在超越時間次元・虚次元・虚軸であったと言えるのではないだろうか。アインシュタインの時空四次元も、そのように理解すべきではないだろうか。そうすると、喪失された内在超越次元・虚次元・虚軸が回帰することになるだろう。これは、イデア界の回帰と、大雑把には言えるのである。正確に言えば、差異共振シナジー界・メディア界の回帰である。
 では、これは、より広く見て、何を意味するだろうか。明らかに、プラトンルネサンスであるし、コスモス・ルネサンスである。単に、哲学上の事柄ではなくて、人類の世界観・宇宙観のパラダイム・シフトに関わると考えられるのである。
 思うに、ドゥルーズ哲学は、差異イデア論であるが、差異=微分という連続・同一性の仮象を実相として把捉するという、致命的な誤謬を犯したのである。これは、西洋哲学史にある同一性の系譜に囚われていたと言えるだろう。ベルクソンハイデガーの哲学に囚われていたのである。しかし、他方、ニーチェ哲学の特異性・単独性を評価していた。しかし、フッサール現象学を超越性の哲学として排除したのである。これは、連続・同一性の視点からは当然の行為である。連続・同一性の視点からは、差異イデアは内在性をもつのであり、超越性はもたないからである。しかし、フッサールの方が、この点では、まったく正鵠を射ていたと考えられるのである。フッサールは、超越論的主観性ということで、内在超越的次元を射当てていたのである。(ハイデガーは、これを、存在論的差異ということで、内在化してしまったのではないだろうか。)
 ドゥルーズは自身の哲学をこの点で、台無しにしてしまったと言えるだろう。この点から見ると、西洋哲学は、フッサールや、おそらく、ホワイトヘッドで、進展を止めてしまったようである。私見では、鈴木大拙の、言わば、即非哲学や、西田哲学に進展の可能性があるのである。即非哲学は、ドゥルーズ哲学の最良の要素を先取りしているものであるし、西田哲学の絶対矛盾的自己同一は、絶対矛盾を維持しているので、連続・同一性からは逃れていると考えられるのである。
 そして、今や、不連続的差異論/新プラトンシナジー理論によって、哲学と数学が新たに結びついて、独創・創造的プラトンルネサンスを実践していると考えられるのである。
 思うに、戦後日本は、深く、恐ろしく唯物論に囚われたと考えられるのである。これは、戦後教育に一番の原因があると思う。戦後教育は、戦前の反動で、精神次元を排斥し、また、アメリカ文明の近代合理主義を取り入れたからである(他方、アメリカは、きわめて、宗教的な国であり、精神次元をもっているのである。しかし、それが、単純過ぎるのが問題なのであるが。)。
 とまれ、今や、ポスト唯物論=新プラトンルネサンスの時である。新精神ルネサンスの時代でもある。これは、ポスト・霊学論でもある。(オカルティズムやスピリチュアリズムとは、いわば、観念論の唯物論化なのである。つまり、そこには、カテゴリー・エラーがあり、知性を錯乱・混乱させるので、大変危険である。)