差異共振界と現象界の関係構造に関する一試論

差異共振界と現象界の関係構造に関する一試論


テーマ:新イデア・共振シナジー理論


差異共振シナジー界が現象化するのであり、この現象界において、多様な物体が運動したり、生成消滅したりしているのである。この現象時空間の、これらの運動や生成は一体どういう構造をもっているのだろうか。
 差異共振界は差異と差異が零度即非的な連結をしているのであるが、このとき、エネルゲイアが発生する。差異と差異との共振エネルゲイアである。これが、現象化して、運動や生成となるのだろう。
 問題は、次元である。差異共振界の何次元だろうか。それを、思考実験的に、二次元ないし三次元としよう。ところで、元々、差異は何次元をもっているのか。最初はX軸で一次元のように思えるが、ガウス平面をイデア界とすると、二次元である。複素平面的二次元である。ならば、差異共振界(メディア界)は、垂直に捩れるので、三次元である。XYZ三次元である。
 この差異共振三次元が、コスモスである。実際のところ、共振軸であるY軸が不可視になっているのではないだろうか。つまり、XZ平面が現象面になっているのではないだろうか。(因みに、ドゥルーズガタリの内在平面ないし存立・共立平面とは、YZ平面ではないだろうか。)
 そして、現象界時空四次元であるが、それは、第四の軸・F軸が生起するのである。それで、空間三次元となる。時間軸は、ほぼ、Y軸と見ていいだろう。(今の私見では、時間軸は、仮構の軸だと思う。Y軸は共振軸と考えるのがいいと思われるのであるが。p.s. 時間軸であるが、やはり、仮象(虚構)軸のように思えるのである。思うに、Z軸において、時間と空間の同一性が形成されるように思えるのである。つまり、時間と空間は対になっていると思うのである。)即ち、XZFの三次元空間である。
 F軸をどう考えたらいいのだろうか。Z軸が現象面軸ならば、F軸は現象同一性軸ではないだろうか。なぜなら、Z軸は、差異共振界の縁・周辺であるからである。つまり、メディア/現象境界なのである。
 これで、XZFの現象三次元空間が考えられた。この三次元空間で、「わたし」Aが原点(0,0,0)に居るとして、他者Bが、(0,0,1)の座標に居て、速度αで、X軸と平行に+の方向に移動しているとしよう。時間をt とすると、t 時間後には、他者Bは、(αt、0,1)の位置に移動していることになる。
 では、「わたし」Aと他者Bの差異共振界の「位置」について考えよう。Z軸から垂直に捩れて、F軸が発生すると考えると、他者Bは、元々は、Z軸上に存した。即ち、他者Bは、(0,1)にあった。Y軸を入れると、(0,0,1)である。あるいは、共振軸を位置を考えると、(0,1,0)に存してたと居えよう。さらに、イデア軸(X軸・実軸)上の位置を考えると、(1,0,0)に存したと言えるだろう。
 とまれ、差異共振界での事象を考えると、Y軸上の「わたし」Aと他者Bは、零度共振して、AとBの極性化ないし即非化が生じる。そして、Z軸上でのAとBとは、同一性のAとBとの関係である。おそらく、Y軸を、イデア/メディア境界、Z軸をメディア/現象境界と言えるだろう。そして、YZ平面が、メディア平面・共振シナジー平面である。
 しかしながら、Z軸上のAとBは完全に二元論的に分離しているわけではないだろう。なぜなら、それは、差異共振界の現象界に対する境界・縁にあるから、いわば、共振性を潜在させているだろうからである。
 では、現象界でのBの移動とは何か。それは、それほど、重要な問題ではないだろう。なぜなら、それは、単純に、現象界でのBの移動に過ぎないからである。現象三次元空間ないし四次元時空間での移動に過ぎないのである。そう、問題は、移動の原動力である。例えば、車で移動したという場合は、ガソリンの燃焼が、運動力に変換されて、移動したのであるから、燃焼によるエネルギーや力が問題であある。しかし、これも、同様に重要な問題ではないだろう。
 結局、現象界での、AとBとの関係が重要である。Bが、X軸と平行に移動したとしても、AとBとは、共振性を潜在させていると見ることができるのではないだろうか。XZFの現象三次元空間ないし四次元時空間においても、存在は、共振性を潜在させていると推測されるのである。つまり、Y軸・共振軸・コスモス軸・精神軸を潜在させていると思うのである。あるいは、YZ平面ないしXYZ立体を潜在させていると。
 【ここで、ついでながら言うと、これは思考実験であるが、XYZ座標において、メディア球が発生しているのではないだろうかと思われるのである。あるいは、共振シナジー球と呼べるように思えるのである。つまり、例えば、XYZ座標で言えば、(1,0,0)は、1/4回転で、((0,1,0)となり、また、垂直化して、(0,0,1)と「回転」する。この移動が瞬間的、無時間的なように思えるのである。つまり、(1,0,0)と(0,0,1)が同時生起するということである。そして、これは、メディア球ないしメディア球面(シナジー球ないしシナジー球面)のどこ位置でも同様なように思えるのである。つまり、この球面においては完全に非局所性が成立しているのである。量子力学の非局所性とは、この球面上の同時存在性を指しているのではないだろうか。】
 結局、現象次元XZF空間は、XYZ次元を潜在させていると言えるのではないだろうか。もっと明快に言えば、Y次元である。結局、これを幾何学的にどう捉えるのだろうか。思うに、現象三次元空間に、虚空間・虚次元を加えればいいのではないだろうか。そう、正に、虚軸としてのY軸である。これで、四次元時空間が考えられるのである。

p.s. 最後の問題は、正しく答えられていない。現象三次元空間ないし現象四次元時空間に対して、虚次元であるY軸、Y次元は、具体的にどのように位置しているのかという問題が残っているのである。
 先には、内在超越的に、垂直に捩れた次元にあるとは述べた。結局、Y次元の潜在のあり方である。
 有り体に言えば、Y次元とは、「心」ないし「精神」の次元である。つまり、「わたし」の「心」・「精神」の次元が、Y次元である。これは、幾何学的にはどういうことなのだろうか。XZFの現象次元において、「心」・「精神」の次元はどこに位置するのだろうか。それは、感覚的に言えば、現象面ないし現象界の「背後」に存するのではないだろうか。例えば、今、「わたし」は眼前にこんもりとして木立を見ているとすると、そのこんもりとした木立の「背後」に、「精神」の次元があることになる。正確に言えば、こんもりとした木立の内在超越次元に潜在していることになる。あるいは、重層的に、折り畳まれているというように言えるのかもしれない。
 今、ふと思ったのであるが、「わたし」という視点は、重層化した視点ではないかということである。「わたし」は、空間三次元を占めるだけでなく、精神次元も占めているのである。つまり、XZF三次元に「わたし」が位置するだけでなく、この位置において、同時に、精神次元Y次元を併存させているということである。スピノザ哲学的である。延長の属性と思惟の属性の心身平行論である。そう、確かに、延長三次元に併存して思惟一次元があるように思える。両者が重なっていると考えられるのである。この延長と思惟(空間と精神)の平行的二重性を、どう見るのかである。
 私見では、身体空間に精神が存するのである。つまり、三次元空間を占める身体に精神が内在しているのである。つまり、身体次元が精神次元であるということになる。ここで、空間と身体とを区別する必要があるだろう。空間次元にある身体次元は、同時に、精神次元を内包しているということである。これは、デカルトは当然ながらも、スピノザが考えなかった視点である。
 空間にある身体とは何かということになるだろう。これは点ではありえない。身体は、身体で、三次元空間であると同時に、精神次元である。これは、内在超越次元である。思うに、知覚次元において、三次元空間を想定するのであるが、知覚次元は、同時に、精神次元を内包しているだろう。ということは、知覚次元自体が、三次元空間+精神次元を内包しているということである。この知覚次元から三次元空間を抽象しているのである。そして、その空間抽象から、精神次元が捨象されているわけである。近代主義二元論的抽象である。
 知覚次元ないし知覚コスモスがあるのであり、ここを出発点にすべきであろう。知覚現象があるが、ここに、三次元空間と精神次元が、いわば、融合している、一如であるのである。そう、知覚現象次元とは、差異/同一性共存次元ではないだろうか。つまり、差異共振次元ではないだろうか。ただし、現象的側面が強いのである。即ち、知覚現象次元とは、YZ平面内在的Z軸的である。否、簡単に、YZ平面次元と言ってもいいのかもしれない。というか、知覚現象次元とは、XYZ次元であり、それにXZF次元が折り畳まれている言えるのかもしれない。つまり、知覚現象次元とは、XYZF四次元であり、空間現象的には、XZF三次元を知覚しているのであり、そこには、Y次元が不可視であるが、身体/精神的には、Y次元は直覚できているということではないだろうか。Y次元が、フッサールの超越論的主観性ないし間主観性の次元にほぼ相当するのではないだろうか。というか、XYZF四次元・知覚現象次元が、超越論的主観性・間主観性ではないだろうか。
 とまれ、近代主義は、知覚現象次元を、空間三次元/精神次元、延長/思惟、客体/主体という形式で、絶対的に二元論化してしまい、前者を唯物論化し、さらに、後者をも唯物論で説明しようとしているということである。プロトモダンの知覚現象次元を回復する必要があるのである。ここに哲学・科学認識論上の大問題であると言えよう。これは、当然、生活はもとより、芸術・文化の問題でもある。
 結局、知覚現象次元とは、本来、空間次元と精神次元とが即非的な現象次元であることであり、近代主義的な二元論化は、一つの見方に過ぎないということである。
 だから、空間次元は、精神次元を内包しているのであり、また、精神次元も空間次元を内包しているという、相補性の関係があるだろう。即非・極性関係である。これを、精神・空間極性関係と、とりあえず、呼ぼう(即非関係、相補関係等呼べるだろう)。だから、空間三次元は単なる抽象であり、実際からは離れているのである。(カントの超越論的形式という主観形式論であるが、それも、おかしいだろう。それは、近代主義化した知覚現象次元を前提とした考えであるからである。)思うに、知覚現象とは空間・精神現象、あるいは、時空間・精神現象である。(どうも、空間・精神現象と呼ぶ方が的確のように思えるのである。なぜなら、時間とは、精神の展開のように思えるからである。だから、空間・精神時間現象となろう。)
 だから、知覚現象を次元化するのは、本当は、微妙な難しいことである。とまれ、次元化すると、空間軸と精神時間軸が、少なくとも必要になるだろう。空間三次元軸と精神時間一次元軸である。そして、後者は、内在超越軸であろう。前者は、表面軸である。知覚現象の空間表面の三次元軸と、内在超越一次元軸との、四次元軸が必要であることになる。内在超越次元である精神時間次元であるが、それは、確かに、第四次元となるのではあるが、空間表象はできないのではないだろうか。数学的には、虚次元、虚軸であろう。つまり、三つの実軸(空間三次元)と一つの虚軸(時間軸:正確には、精神時間軸)による四次元時空間ではないだろうか。おそらく、三つの実軸は、複素平面を内在超越的に内包していることになるだろう。つまり、複素平面が共通になるだろう。そして、複素平面が、精神時間次元である。空間実軸三次元+精神時間虚軸一次元の知覚現象四次元である。差異共振シナジー界を考えると、当然、それは、精神時間虚軸一次元が基軸になるだろう。これが、コスモスの基軸である。
 思うに、近代というエポックは複雑化していて、本来、ルネサンスのプロトモダンが原点としてあるが、プロテスタンティズム/近代合理主義的反動によって、近代主義となる。そして、それへの反動として、ロマン主義、神秘学、生の哲学現象学実存主義構造主義、等々が生まれたのである。しかし、プロトモダンは、もともと、空間/精神時間現象を対象としていたのである。即ち、新たな差異の発動、差異共振シナジーエネルゲイアが発現する知覚現象が主体であったと考えられるのである。
 ここで、最後に付け加えると、現象、生命、人間を考えると、それらは、正に、空間/精神時間現象である。物質とは、その現象を、空間・時間同一性形式で切り取った、抽象化したものと考えられるのである。空間/精神時間現象を認識しないといけない。それは、差異共振シナジー的空間・精神時間現象である。現象を唯物論から救済しないといけない。差異共振シナジー現象として現象を把捉しないといけないのである。差異共振シナジー事象が、同時に、精神時間虚次元であり、空間三次元であるのであり、両者は即非・極性・相補関係にあると考えられるのである。
 結局、新プラトンシナジー理論は、不連続的差異イデア論という新たなイデア論によって、現今の唯物論的自然科学を超克する新しいイデア論的サイエンスを提起していると言えるだろう。