現象とコスモス:時空間と超時空間:光と超光

現象とコスモス:時空間と超時空間:光と超光


テーマ:新イデア・共振シナジー理論


単純なところから考察しよう。
「わたし」が眼前に見る現象界は、何であろうか。例えば、今、「わたし」が眼前に木を見ているとしよう。この木は、確かに、「わたし」との間に距離をもっている。5メートルほどの距離空間があるとしよう。 この場合、「わたし」は同一性であり、木も同一性であり、眼前の距離空間も同一性である。これは、四次元時空間の現象である。近代主義の時空間である。もし、森ならば、伐採して、パルプの原料や木材にすることができる。そう、木や森は、有用な物質でできているのだ。
 ここでは、本来、「わたし」という差異・特異性と「木」ないし「森」という差異・特異性と距離空間という差異・特異性が存しているのであり、「わたし」と「木」・「森」と距離空間は、差異共振シナジー関係にあると言えるのである。「わたし」と「木」とは即非の関係にあると言えるのである。即ち、「わたし」=「木」であり、且つ、「わたし」≠「木」である。もっとも、「わたし」と「木」とは差異として理解されねばならない。同一性現象と差異共振コスモスとがここには併存しているのである。しかし、前者は、真実在は、仮象に過ぎない。近代以前は、後者の「生活世界」を人々は生きていたのだろう。民俗・フォークロア的世界である。柳田國男折口信夫の世界、宮崎駿の世界である。民話・ファンタジーの世界である。
 私は、現代における差異共振コスモスを問題にしたいのである。「ポスト近代主義」=プロトモダンを問題にしたいのである。では、「わたし」の眼前の「木」は、何だろうか。それは、確かに、連続・同一性現象・仮象であり、それを、近代主義の尺度と把捉できるのであるし、それが、生活の基本の一つである。もし、「わたし」と「木」と「距離空間」の、それぞれの連続・同一性を認めない場合は、「わたし」は、「木」に衝突したりすることになったり、「木」が「わたし」に入り込んだというような病理現象を呈したりするかもしれない。
 この連続・同一性現象・仮象は、前提として認めなくてはならない。これが、近代主義であるし、ある意味でこれだけである。極めて、閉ざされてた、閉塞した時空間であるから、逆に、精神病を発症すると言えよう。
 差異共振コスモスであるが、それは、この近代主義時空間に折り畳まれるようにして存在していると言えるだろう。察知されたり、されなかったりする事象である。だから、近代主義から徹底的に排除されたと言えよう。デカルトはあいまいなものを徹底して排除したのである。
 とまれ、差異共振コスモスは、察知・身体知覚されやすい時空間があると思えるのである。例えば、夜明けや夕方のとき、薄明のとき、あるいは、紺碧の空や群青の海に接したとき、あるいは、原生林に接したりするとき、山岳や野の美しい花を見たとき、田舎の照明や排気ガスのない澄んだ星空を見たとき、田舎で、鳥の囀りや虫の音を聴いたとき、鷹が上空で回転飛翔するのを見たとき、偉大な芸術家の作品に触れたとき、偉大な哲学や宗教に触れたとき、等々のときに、差異共振コスモスが、いわば、精神触覚的に知覚されるのである。
 実は、眼前の「木」に対して、差異共振コスモスを感じることはできるのである。ただ、日常生活においてはそうしないだけである。そう、私事を言えば、私は、都会のプラタナスの街路樹に差異共振コスモスを感ずるのであるし、海の寄せては返す波に、瞬間的に、差異共振コスモスを感じたりするのである。思うに、近代主義知覚と差異共振コスモス知覚の中間態に、私は生きているのだろう。否、私は、差異共振コスモス自体に生きていると言えるだろう。なぜなら、差異共振コスモスとは反面では、現象態を帯びるからである。その現象態に近代主義を適用すればできるのであるが。
 D.H.ロレンスの『死んだ男』の暗いコスモスの薔薇とは、差異共振コスモスを壮麗壮観に表現したものだろう。
 結局、私が言いたいのは、われわれの眼前にある現象界とは、近代主義が説くようなものではなくて、差異共振コスモスの表面・表層・現象(光の相)と言えよう。差異共振コスモスの現象・仮象を見ているのである。
 では、差異共振コスモスの時空間や次元はどうなのかという大疑問が浮かぶのである。近代主義時空間は、四次元時空間である。では、差異共振コスモスは何次元時空間なのだろうか。私の今の作業仮説ないし思考実験では、同じ、四次元時空間なのである。ただし、差異共振次元が存しているのである。それは、時間次元と同じだと思うのである。即ち、差異共振・時間次元をもつ四次元時空間である。
 この差異共振・時間次元は、どこにあるのかと言われれば、これは、ある意味で、精神次元であり、近代主義的視点からは不可視である。そう、差異共振・精神・時間次元であろう。だから、これは、いわゆる、物理的には規定できないと考えられる。私の直観では、その精神の次元は、主体の内部にあるのである。心身にあるのである。身体にあるのである。ここに差異共振・精神・時間軸があるのである。あるいは、差異共振コスモスがあるのである。これは、これまでの思考実験からすると、内奥において、垂直に捩れた虚次元・虚軸にあるのである。ガウス平面で言うと、Y軸にあるのである。近代主義的四次元時空間では、時間軸が見えないのであり、ただ、仮想・想定しているだけなのである。ict (iは虚数、cは光速、tは時間)軸である。しかし、差異共振コスモスは、実は、精神的に感覚できるものである。精神身体感覚によって知覚できるものである。初めは幻想・空想・妄想のたぐいに思えるかもしれないが、何度も「実験」的に体験すると、疑いえないものであることがわかる「感覚知覚」である。
 これはどういうことなのだろうか。通常の近代的直観では、空間三次元である。それに対して、時間軸は通常、直観できない。しかし、それは、精神的には直覚できるのである。差異共振虚軸が精神的に存していると言えるのだろう。
 ここでもう一度、「わたし」の眼前の「木」で考えよう。「わたし」と「木」は、「距離空間」を越えて(超越して)、差異共振して、コスモスを形成する。だから、単純に考えて、差異共振軸とは、「わたし」と「木」との間にあると言えよう。それは、前後空間と言えるかもしれない。【あるいは、前面空間かもしれない。思考実験的に、それは、平面であると仮定することができるだろう。即ち、YZ平面である。いわば、メディア平面である(ドゥルーズガタリは、内在平面と呼んだものが、これかもしれない。)そうなると、軸ではなくて、平面である。差異共振・精神・時間平面となる。】とまれ、「わたし」と「木」の間に差異共振軸ないし次元を想定すると、それは、精神軸であり、唯物論的空間にはありえないのではないだろうか。唯物論的現象空間においては、精神軸・次元は見えないはずである。しかし、それは、直覚・直観できるものである。フッサール間主観性の生活世界とは、この次元の世界と考えられるのである。

(以下、思考実験である。)
 とまれ、この精神軸・次元は、唯物論的三次元空間内には、想定できないものである。それは、不可能である。それは、差異と差異との間に存するものである。それは、隠れた軸・次元であろう。潜在(「隠在」)する軸・次元であろう。おそらく、精神軸・次元が本来あるのであるが、それが、唯物論的現象においては、不可視というか、想定不可能なように思えるのである。わかりやすく言えば、精神次元と空間三次元が本来あるのであると仮定しよう。しかし、唯物論的現象空間的には、精神次元は不可視なのである。今、思考実験的に仮定すると、精神次元とは、いわば、球面ではないだろうか。三次元空間(XYZの直交空間)に対して、原点を中心にする球体の球面が精神次元ではないだろうか。いわば、球面「軸」・次元である。だから、(x1,y1,z1)と(x2,y2,z2)の間には、球面的に精神次元があるということではないだろうか。否、球体的かもしれない。球体精神次元である。「わたし」と「木」との間の精神次元は、球体コスモス次元に存するということになるだろう。無限速度の原光の球コスモスである。

(思考実験から戻る)
とにかく、空間三次元と精神一次元の四次元を想定することができるのである。後で、空間三次元と精神一次元の関係を再検討したい。

p.s. 以下も思考実験である。

時間は、思うに、仮想的なものかもしれない。差異共振エネルギーが、現象を形成し、駆動させているのであり、空間移動から時間が形成されるのではないだろうか。
 とまれ、精神エネルギー次元(=差異共振エネルギー次元)があるだろう。これは、力動次元・エネルゲイア次元である。この次元が、唯物論的現象界においては、不可視次元であると思うのである。思うに、ベルクソンが持続概念で、オルテガが「生・理性」で表現しようとしたものが、このエネルゲイア次元かもしれない。これは、超越論的次元、虚次元にあるだろう。唯物論的現象空間三次元からは、完全に不可視且つ不可知の次元である。
 さて、ここで思考実験であるが、Z軸を同一性現象次元で、前後軸、Y軸を左右軸、X軸を上下軸としよう。そして、YZ平面を差異共振平面次元としよう。これで、三次元空間プラス原時間平面(エネルゲイア次元)で時空四次元であろう。あるいは、三次元空間+コスモス平面次元の時空四次元である。つまり、三本の軸と一つの平面による四次元時空間である。しかし、そうならば、YZ平面で、例えば、地表平面がコスモス平面次元となるだろう。そして、YZ平面を球面にしたとき、Y軸とZ軸は、直交する円となるだろう。そして、X軸が鉛直線の方向である。これは、重力・引力の方向である。
 とまれ、地球上で考えると、差異共振コスモス、コスモス次元とは、地表となるだろう。地表の共振コスモスである。それに重力が直交する。つまり、「わたし」と「木」は、地表の共振コスモス次元によって、差異共振コスモスを形成しているということになるだろう。これは、光の次元でもあろう。そうすると、地球は太陽と一致するだろう。また、敷延すれば、全宇宙と一致するだろう。つまり、全宇宙を地球で代表できるだろう。ミクロコスモス=マクロコスモスである。そうすると、YZ平面は、円や球面で表現できるだろう。これが、五芒星等と関係するのではないだろうか。円に内接する正多角形の問題である。古代宇宙論占星術の起源は、ここではないだろうか。YZ平面・球面幾何学ではないだろうか。
 また、思うに、YZ平面の光の強度は、X軸の重力と関係するのではないか。いわば、X軸の重力が光の起源ではないだろうか。重力が光を発生させて、そして、星を形成するのではないだろうか。重力がイデア界の虚力ではないだろうか。重力→差異共振シナジーエネルゲイア→現象エネルギーではないだろうか。