近代的自我と差異:同一性志向性・投影による主客分化現象化

近代的自我と差異:同一性志向性・投影による主客分化現象化


テーマ:差異と同一性


差異を否定・排除する近代的自我は、差異を差異として見ずに、差異に同一性を当てているのであるが、逆に言えば、差異の存在は前提となっているのである。差異の存在を、否定・排除したいので、同一性を押し付ける(暴力)のである。だから、近代的自我は、同一性の脅迫観念をもっていることになる。カント哲学で言えば、物自体を否定・排除する超越論的形式の自我である。物自体は前提であるが、それを、否定・排除するのである。弁証法的自我である。
 物自体とは、差異共振シナジー世界(=メディア界)である。これを同一性で占めよう(「占領」しよう)とするのは、エゴイズム、暴力、権力であるが、アイロニカルに、同一性は、差異の位置に同一化しているのである。つまり、同一性は、差異を否定・排除する正にその時に差異の位置に同一化していると考えられるのである。だから、差異否定・排除(・隠蔽)とは、差異への譲歩の面があると言えるだろう。同一性は同一性だけでは成立しないのである。差異の位置を同一性が占めることで、同一性を確認するのである。もし、同一性自体に自律的な意味があるならば、それは、差異の位置を占める必要はないはずである。差異は差異、同一性は同一性であるからである。
 ということは、とりもなおさず、同一性がいかがわしいものであることを証するだろう。同一性の母体・基礎・基盤は、差異なのであると言えるだろう。差異の変形としての同一性であり、この出自を見えなくさせるために、差異の位置を占めるのだろう。差異は脅威なのである。
 思うに、この差異の位置の僭越的占領とは、現象の見えに関わっているように見えるのである。同一性が同一性にこだわるのは、現象的見え(=見栄)のためだと思われるのである。つまり、現象的見えと同一化しているために、自我は、差異を否定・排除するのである。つまり、本来、主体の投影である現象(客体現象)と、自我は同一化しているのであり、この現象同一性化が中心となり、差異を否定・排除するのである。ここで、ラカン精神分析鏡像段階を想起するのであるが、現象の見え(視覚的現象)に同一化する主体がここにはあるだろう。ここでは、転倒があるのである。フッサール哲学的に言えば、ノエマを、現象的見えに変換しているのである。本来、「心象」であるものを、外界化しているのである。ここには、ノエマを、「外界」へと同一性化的に投影している主体があるのである。
 問題は、この投影する主体である。内的視覚像(ヴィジョン?、イデア?)を投影=「外界」・「客体」・「対象」化する主体の問題である。この投影「事象」の力学構造が問題である。本来、差異、差異共振性とともにある同一性=内的視覚像であるはずであるが、それが、「外界」化されるのである。おそらく、「外界」とは、仮想・仮構・虚構的仮象なのである。正に、プラトンの洞窟の比喩における洞窟のスクリーンである。「外界」とは影絵であり、本体は、光の前の「人形」である。この比喩を継続すれば、光とは、差異共振シナジーであり、人形とは、内的視覚像・心象・ノエマであろう。
 投影「事象」が問題なのである。それは、本来の光源を忘却して、内的ヴィジョンを「外的」ヴィジョンと錯誤することである。これは、いったい何が原因なのか。そもそも、「内的」という考え方も、本来的ではない。それは、内部と外部の分離によって形成される見方であるからである。内と外との分離の発生が、根源の問題である。
 新プラトンシナジー理論(以下、プラトンシナジー理論)に拠れば、零度差異共振シナジー世界の発生によって、原現象が生起したと考えられる。差異1と差異2とが零度共振して、連結するのである。差異が本来もっているノエシスノエマは、このとき、対自化される。即ち、差異1のノエシス1/ノエマ1と差異2のノエシス2/ノエマ2とが共振して、ノエマ1には、差異2が反映・反照されると言えよう。そう、問題の核心は、この差異零度共振における反映・反照である。この反映・反照は、即自的なノエマとは異なり、明らかに、対自的なノエマとなっているのである。この対自的ノエマを、連続・同一性化することが、投影ではないか。零度差異共振世界(=メディア界)において、差異共振シナジーによって、ノエマが相互に対自化される。この対自的ノエマの連結体として、差異共振シナジー世界があるだろう。
 思うに、ここにおいて、原内部/原外部の区分が発生しているのではないだろうか。即自的ノエマと対自的ノエマの「差異」がある。前者が原内部となり、後者が原外部となるのではないだろうか。しかしながら、差異共振反映においては、内部/外部の分化はない。しかし、連続・同一性過程になると、対自的ノエマ=共振反映が、同一性化されるようになる。差異共振シナジー様相に過ぎないものが、連続・同一性として、仮現・仮象するのである。差異共振シナジー様相とは、「光」とともにある対自的ノエマの様相であろう。「光」と、「影」としての対自的ノエマが共立しているのだろう。「光」が背景で、「影」が原現象と言ってもいいかもしれない。ここでは、まだ、内外分離はない。連続・同一性の過程に入ることで、それが始まると言えよう。
 問題は、「光」とともにある差異共振像(対自的ノエマ)、「光」と「影」との相補的原像が、内外・主客分離するという「力学」である。ここで、ヘーゲルの疎外という用語が想起される。確かに、ここでは、なんらかの疎外が生起するだろう。連続・同一性過程は、差異共振像を排斥するようになる。即ち、対自的ノエマ・差異共振像が、連続・同一性にとり、否定・排除される対象となると考えられる。
 では、連続・同一性とはどうやって発生するのだろうか。何だろうか。その構造は何なのだろうか。差異1=差異2の等号が連続・同一性であると言える。ここで、即非の論理を考えると、差異1=差異2且つ差異1≠差異2であるが、後者の≠が喪失されるのが、連続・同一性事象であると言えよう。換言すると、即非の論理の事象、即ち、差異共振事象の内の、差異不等号性が消去されて、差異が等号化される。即ち、差異共振性自体が、いわば、差異連続・同一性に変換されると言えよう。差異連続・同一性とは、数学で言えば、微分のことである。差異=微分のことである。これは、同一性暴力である。
 さて、この差異連続・同一性が差異共振性を否定・排除・隠蔽するのであるが、冒頭でも述べたが、前者は、後者の位置を占めているのである。つまり、ノエマ、対自的ノエマの位置を、差異連続・同一性は占めているのである。本来、差異、差異共振性である事象を、差異連続・同一性として、錯誤するのである。
 では、差異連続・同一性は、対自的ノエマの位置にあるのであるが、仮象としては、どういうように見える(現象する)のであろうか。差異共振事象とは他者である差異への志向性的共振性である。しかし、差異連続・同一性とは、差異志向性を消去して、いわば、同一性志向性へと変換すると言えないだろうか。そう、作業仮説しよう。換言すれば、差異共振性を同一性志向性へと変換することである。思うに、この同一性志向性が投影ではないだろうか。差異連続・同一性が差異の位置を占めるのであるが、この「占領」が、同一性志向性ではないだろうか。差異連続・同一性が差異自体へと投影する同一性志向性、これが、外界や内界の分離・分化を発生しているのではないのか。図式化すれば、

A. 差異連続同一性→B. 差異自体

この→が、同一性志向性、同一性投影であり、ここで、AからBへの同一性投影が、現象化ではないだろうか。つまり、Aが内界・内部・主体であり、Bが外界・外部・客体へと転換するのではないだろうか。つまり、同一性志向性・投影が主客二元論的現象(仮象)を発生させるのではないだろうか。これも作業仮説としよう。そして、この徹底化というか、物質主義的徹底化が、近代的合理主義だと考えられよう。
 そして、この同一性志向性・投影による現象化が、時空間世界の仮象化である。さらに、作業仮説であるが、同一性志向性・投影が、時空間形式構造、即ち、カントの超越論的形式構造ではないだろうか。そして、これが、アインシュタイン相対性理論光速度一定の公理に結晶しているのではないだろうか。簡単に言えば、同一性構造形式が、光速度一定ということである。また、E=mc^2 とは、同一性志向性・投影のもつエネルギー公式ではないだろうか。(ここで、ヌース理論を想起するが、それは、まったくの同一性現象を説明しようとしている理論もどきであり、差異自体をまったく排除している。だから、やはり、ヘーゲル主義なのである。国家主義全体主義ファシズムなのである。また、イデア論ではありえない。なぜなら、同一性=物質が単位であるからである。似非イデア論であり、唯物論である。ヌースは物質のことである。だから、ヌース理論とは、大変な食わせ物である。詐欺・ペテンである。物質をヌースと呼んでいる思想・哲学的詐欺・ペテンである。哲学的には、追放されるべきであるし、また、自然科学的にも、問題があるだろう。半田氏に一番欠落しているものは、物事の基本的定義や意味である。これを完全無視しているので、不合理・非合理・妄想・狂気に陥っているのである。たとえば、水は液体である。液体は、流動的である。これが、意味である。半田氏は、水という現象を、イデア自体と考えているのである。水はイデアシナジー事象ではあるが、イデア自体ではないのである。)
 ということで、差異連続・同一性志向性・投影の構造形式が主客二元論の「現象」を仮現していることがわかったとしよう。では、次の問題は、やはり、「光」の問題である。同一性志向性・投影は「光」の「現象」を生むのであるから。端的に言えば、差異共振性と「光」の関係が問題である。
 差異共振シナジー事象は「光」事象であるが、それは、いわば、原光事象であろう。差異共振シナジーは原光事象である。それを差異連続・同一性が光現象に変換するのではないだろうか。即ち、差異共振シナジー事象は原光事象そのものであり、差異は共振して、原光事象となっていると考えられるだろう。このときの、いわば、共振的ノエマが「影」であるが、これは、いわば、「光」=原光の中の「影」であろう。
 とまれ、問題は、原光と光の関係である。差異共振志向性が原光であるとすれば、同一性志向性が光である。換言すると、差異の光と同一性の光があるのである。太極の光と連続・同一性の光である。プラトンの光とニュートンの光である。無限速度の光と有限速度の光である。前時空間の光と時空間の光である。
 ここで整理すると、時間とは、同一性志向性エネルギーのことであり、空間とは、同一性志向性によって派生する同一性と同一性との距離、即ち、延長のことであろう。だから、差異の光の《場》(=原・前時空間)には、差異共振シナジー・原エネルギーがあるということになるのではないだろうか。これが、原光である。思うに、無限の原エネルギーではないだろうか。イデアシナジー・「エネルギー」である。そして、同一性志向性=光=エネルギーとは、これを、同一性構造に拘束・抑圧していると考えられるだろう。差異共振シナジーの無限・原エネルギーを、同一性の有限・エネルギーに、言わば、「縮約・縮小」、「変圧」しているのである。これが、現象太陽であろう。だから、現象太陽の「裏面」(つまり、内在的超越的次元)には、差異の太陽が存していることになろう。そして、これが、コスモスであろう。現象宇宙のことではない。即ち、差異の太陽=コスモスである。そして、これが、原太陽系であろう。だから、差異の太陽=コスモス=原太陽系である。
 この差異の太陽が、D.H.ロレンスの説くdark sunであろう。そして、神話では、イシスであろう。同一性の太陽がオシリスであろう。そして、プラトンの洞窟の外部にある太陽=善のイデアも、差異の太陽のことだと考えられるのである。
 さて、さらに、問題は、この差異の太陽の根源の原イデアの存するイデア界のことである。おそらく、アリストテレスのデュナミスの用語を当てるといいだろう。ここで、整理するために、図式化すると、


1.イデア界・不連続的差異共立界・デュナミス:「玄無」
     ↓


2.メディア界・差異共振シナジー界・エネルゲイア:「黒い太陽」
     ↓


3.現象界・エンテレケイア・同一性エネルギー:「白い太陽」


ではないだろうか。とまれ、エネルギーの問題がここにはあるだろう。E=mc^2の問題である。これは、3の同一性エネルギーの記述であろう。では、2のエネルゲイアの記述はどうなるのか。これまでの思考実験では、エネルゲイアをXとすれば、Xi=mc^2であるから、X=mc^2/i である。後でさらに検討を続けたい。


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■欲望模倣論と鏡像論は乗り越えられて、包摂されるだろう

ルネ・ジラールの模倣の欲望理論とラカン鏡像段階理論は、新プラトンシナジー理論に吸収包摂されるだろう。
 欲望の模倣ではなくて、差異の同一性化であり、また、鏡像段階理論であるが、それも同様に、差異の同一性化で説明できるのである。後者のナルシシズム論であるが、それは鏡像へと同一化するとは、根源に同一性があるということである。連続・同一性が、他者へと同一性を投影するのである。だから、鏡像段階論とは、転倒しているのである。鏡像で同一性を形成するのではなくて、他者への同一性の投影が現象化には発生しているのである。ラカン鏡像段階論は逆さまなのである。言わば、初めに、差異を否定する同一性が発生して、投影によって、自我を発達させるのである。
renshi (2006-08-03 22:07:19)