「わたし」の他者である潜在意識について:「わたし」と特異性:そし

「わたし」の他者である潜在意識について:「わたし」と特異性:そして、時間について


テーマ:自我/個


潜在意識とは何だろうか。それは、「わたし」の主体のようなものではないのか。通常、日常、「わたし」は、五感を介して、現象を知覚・意識している。例えば、誰でも、車が道路を走るのを見て、そうと確認するだろう。車がやってくるのを確認するのは、「わたし」である。潜在意識ではないだろう。(p.s. 少し訂正する必要がある。日常生活において、現象を知覚するのは、「わたし」=自我であるということは正しい。しかし、もし、単にそれだけならば、車で、人を引いてもかまわないということになるだろう。何故なら、車を運転する「わたし」=自我にとって、信号を無視して横断する人間は嫌悪・憎悪の対象であるから、ひき殺すべきなのであるということになるからである。だから、日常知覚ではあっても、その裏には、特異性の個がなくてはならない。これは、差異共振性であるが、それが、倫理主体なのである。
 思うに、今日、凶悪な犯罪(幼児殺害等)が多いのは、日常において、「わたし」=自我中心主義になり、特異性=内在倫理を否定・排除しているからだと考えられる。また、精神病理的に傲慢な人間が増えているのも、ここに拠るだろう。この問題は別稿で検討したい。)
 しかし、この自我である「わたし」とは何か。それは、現在において生成される連続・同一性意識である。しかるに、一瞬の後に、その「わたし」は崩壊して、新しい「わたし」になっているのではないか。時間をtとすれば、「わたし」t1→「わたし」t2→「わたし」t3→・・・ではないだろうか。「わたし」をIとすれば、It1, It2, It3, ..... Itn となる。通常、これらを連続・同一性(同一体)として見ている。つまり、It1=It2=It3=.....=Itn である。問題は時間論となる。差異、不連続的差異の時間論である。
 ここでも、直観で考察しよう。「わたし」は瞬間、瞬間、他の差異と「出会って」いる。他の差異をOd(Other difference)としよう。すると、


It1-Odt1→It2-Odt2→・・・→Itn-Odtn    (1)


となる。簡潔にして、


(I-Od)t1→(I-Od)t2→・・・→(I-Od)tn     (2)


となる。これは、いわば、ノエシスノエマの時間論である。差異としてのノエシスノエマの関係である。これらは、不連続的差異だから、本来は、不連続な「結合」をもつ。つまり、不連続的時間の継起である。零度差異共振シナジーから、それらが、連続体に見えるのである(仮象)。「わたし」は、本来、不連続的差異の「意識」(おそらく、潜在意識である。無意識という用語は、精神分析の用語になっているので、できるだけ使用しないことにする。ミスリーディングだからである。)である。不連続的差異意識が連結して、連続・同一性の自我を形成(仮象)していると考えられる。だから、自我は幻想であると言えるだろう。瞬間の幻想である。極限値という仮象である。(そう、問題は、自我がないとき、倫理はどうなるのかということである。人に害を与えた「わたし」が幻想・仮象であるとすると、責任主体はどうなるのか。思うに、責任主体は、「わたし」、「自我」ではなくて、不連続的差異意識に存するのではないだろうか。つまり、不連続的差異意識とは、特異性であり、特異性として、反復するのであるから、ここに責任主体を置くのは、合理的であろう。特異性自体は不変であるのであり、自我は幻想・仮象であるから、当てにならないものである。【このように考えると、法哲学が変わるのではないだろうか。】
p.s. ここの自我幻想・仮象論は、とても価値転換的な問題を含んでいる。つまり、「わたし」=自我に埋没しているということは、倫理的ではないということである。逆である。没倫理的である、「いい加減」、杜撰ということになる。何故なら、「わたし」=自我は、瞬間瞬間流動変化しているのだから、責任主体になりえないからである。そのとき、そのときの都合に適応した「わたし」=自我、御都合主義・機会主義の「わたし」=自我があるだけで、それは、無責任主体である。大泉首相は、この一つの典型であり、現代、大半の日本人が、この幻想・仮象に陥っていると言えよう。没倫理・反倫理・無責任の主体としての「わたし」=自我となっているのである。そう、この連続・同一性中心主義である「わたし」=自我は、言葉を換えれば、悪魔である。また、単に悪魔であるだけでなく、非実在的、空虚な存在である。また、これは、犯罪予備軍である。暴力衝動を「わたし」=自我はもっているから、他者を攻撃することが必然である。つまり、「わたし」=自我の真の主体である内的他者・差異・特異性を否定・排除するという暴力性を内包しているので、当然、外的他者に対しても、攻撃的になるのである。
 そう、国家は、これを拡大したようなものだから、戦争が必然なのである。この点、日本国憲法第九条は、極めて、意義深い。これは、言わば、国家自我主義、つまり、国家中心主義を解消する原理であるからである。平和憲法は、不連続的差異論/新プラトンシナジー理論によって、哲学的に正当化され、進展・深化するだろうし、また、後者は法学・憲政学的に展開するだろう。
 ということで、近代主義、近代自我主義、近代合理主義は、人類滅亡へと向う考え方である。明らかに、これをプロトモダン的に超克する必要がある。サル人類路線を乗り越えて、ポスト・サル人類/超人類路線へと切り替える必要がある。)
 さて、以上から、「わたし」=自我が、不連続的差異意識=特異性に還元された。ここで、最初の潜在意識の問題に戻ると、潜在意識とは、不連続的差異意識=特異性と関係していると言えるだろう。しかし、イコールではないだろう。潜在意識は、特異性ではあるえるだろうが、不連続的差異意識とは言えない。つまり、特異性をベースにすると、特異性には、潜在意識と意識との二つがあるということになるだろう。

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潜在意識 特異性 意識・・・「わたし」→外的他者

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特異性=不連続的差異である。
「わたし」の他者がこの特異性である。そして、他者とは、内的他者であり、また、外的他者である。「わたし」の基底に他者=特異性があるのである。それは、いわば、内的他者である。そして、同時に、他者は外部にも存するのである。「わたし」の基底に内的他者=特異性が存するのだから、外的人間は、同様に、外的他者である。つまり、内的特異性が、外的他者を認識するのであるから、当然、それは、外的特異性である。特異性の認識は、特異性としての外的他者の認識になる他はないと考えられるのである。私が、現象界の個物や個体を特異性と呼ぶことの正しさは、この点から証明できよう。
 そうすると、結局、特異性1と特異性2とが出会って、「現実」を構成しているのである。連続・同一性なぞ、どこにもないのである。微分積分は幻想・仮象である。
 さて、ここで、時間について考えよう。(上図式は、「わたし」と「他者」との時間的継起を問題にしている。I-Odは、特異性の視点からは、 Singular-Other Singularとなるから、S-OSとなる。)時間は、零度差異共振シナジーによって発生しているだろう。イデア界には通常の実時間はないだろう。零度差異共振において、差異連結が発生する。この差異連結エネルギーが時間ではないだろうか。図式化すれば、


差異1ー差異2ー差異3ー・・・ー差異n  (ーは連結)


となる。連結ーが、時間となるだろう。即ち、


差異1・時間・差異2・時間・差異3・・・・時間・差異n


である。思うに、差異共振シナジーの極性が、このとき、本質的だと考えられる。差異連結エネルギーを+の極性とすれば、それとは反対の−の極性がなくてはならない。それは、当然、差異解体(解消)エネルギーと考えられる。【この問題については、不連続的差異論誕生直後、Kaisetsu氏が述べた、エネルギー保存則の視点を適用できると考えられる。差異連結の+エネルギー(正のエネルギー)に対して、バランスを取る差異解体(解消)の−エネルギー(負のエネルギー)が発生すると、保存則が言えるだろう。】
 この極性エネルギーが時間だと言えよう。即ち、零度差異共振シナジー・エネルギーが時間であるということである。ここでは、とりあえず、アインシュタインの公式を使うことにして、E= mc^2(=hν)に、それが記述されているのではないだろうか。時間はエネルギーである光であると言えよう。(ただし、この光は、原光であろう。後で検討したい。)
 とまれ、そう考えると、時間軸は、Y軸・虚軸ではないだろうか。そして、Z軸が、同一性=現象軸ではないだろうか。思うに、現象界において、時間軸・Y軸・虚軸は、言わば、Z軸に折り畳まれているので、不可視なのではないだろうか。折り畳まれていると言っても、仮象である。そう、Y軸・虚軸(=共振シナジー軸、共振軸)は、原光の軸であり、Z軸が光の軸ではないだろうか。相対性理論は、Y軸とZ軸の平面(メディア平面?)の理論であると言えるのではないだろうか。
 では、問題は、どうして、Z軸は、三次元空間に見えるのかであろう。あるいは、時空四次元になるのか。ここでは、思考実験であるが、Y軸が時間軸ならば、X軸、Z軸、そして、第四軸・F軸で三次元空間となる。XZ平面を、知覚平面としよう。それに対して、奥行きを、第四軸・F軸の方向としよう。XZFで三次元となる。これが、また、時空四次元なのではないだろうか。何故、現象界には、時間軸が見えないのかというと、それは、1/4回転で、捩れているからではないだろうか。Y軸が捩れて、Z軸へと折り畳まれているということではないだろうか。そして、Z軸が光軸ならば、光の方向に、隠れたY軸・時間軸があるのではないか。光の方向とは、太陽の方向であろう。そして、太陽からY軸・虚軸が出ているのではないのか。思うに、「内側」に捩れている。そう、「内側」に虚次元を作ればいいのではないだろうか。この虚次元が、時間軸・時間次元であろう。だから、虚時間であろう。そして、これが、虚太陽であろう。黒い太陽である。太陽の「内側」に垂直に捩れて虚次元・虚太陽・虚時間があるのではないだろうか。差異共振シナジーはそこに存するだろうし、コスモスもそこにあるだろう。極論すれば、虚宇宙と言ってもいいだろう。ここが、本当のイデア界かもしれない。これまで、メディア界と呼んできたが。直観では、ここは、球体である。あるいは、円である。プラトンが『ティマイオス』で説いたコスモスの原像はここにあるのではないだろうか。そう、古代宇宙論とは、これを対象としているのではないだろうか。また、占星術も本来、ここを対象としたのではないだろうか。零度差異共振シナジー幾何学があるのだろう。それは、均衡・対称・調和的だろう。
 五芒星であるが、それは、思うに、太陽系の基本数ではないだろうか。そう、思うに、基本数は、いろいろあるのだろう。3であったり、4であったり、6であったりするだろう。結局、零度差異共振シナジー幾何学は、太陽系では、基本数は5を取るということではないのか。基本数5の幾何学である。基本数5のコスモスである。占星術の原点はここにあったのではないか。占星術ないし古代宇宙論の惑星とは、このコスモスにおける「惑星」ではないのか。コスモスの「惑星」とは何か。それは、四大+1=五大的なものではないのか。地水火風空。四元論+一元論=五元論である。これは、また、ピラミッドと関係するのではないだろうか。また、人間の五本の指とも(英語では、four fingers + a thumbである)。イエス・キリストとは、本来、この基本数の象徴を意味するはずであったのではないか。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四人の福音書家は、四大の象徴であり、キリストは、総体の5ではなかったのか。そうすると、仏教の五大と共通する(参照:陰陽五行思想)。そう、結局、太陽系である。あるいは、原太陽系である。イシスや女神のシンボルの♀(金星)であるが、これも五であろう。○と+である。イシスとキリストは一体なのだろう。オシリスとしてのキリストだろう、やはり。日御子である。
 では、イシスとは何か、もし、キリストが5を意味するならば。極言すれば、同一である。イシスとイエスは同一である。太陽ないし原太陽の問題である。おそらく、黒い太陽がイシスであり、その現象がイエスオシリスではないだろうか。いわば、イシスが奥の院で、イエスオシリス(=日御子・天皇)が本殿である。(拝殿が、地球であろう。)
 では、月はどうなるのか。月がなければ、生命のリズムはない。潮の満ち引きがない。月が、太陽と地球のバランスを取っているのだろう。月が太陽と地球のメディアだろう。太陽系の基本数5に対して、月は基本数7ではないだろうか。7×4=28日の公転周期である。5+7=12。12も基本数である。ならば、5と7の結婚が、地球ということになるだろう。12ヶ月。
 問題は、プラトン年である。25920年(=432×60=3×144×5×12=3×12×12×5×12=3×5×12^3=3×5×3^3×4^3=5×4^3×3^4【これはなにか示唆的ではないか】)。3も基本数であるが、それは何を意味するのか。これは、神話的には女神の数である。三女神。三美神である。これは、太陽、地球、月ではないのか。(参照:アマテラス、スサノオツクヨミ) p.s. カール・ケレーニイは、デーメーテール(母)とコレー/ペルセポネー(娘)とヘカテー(月の女神)の三柱の女神たちを述べている。)
 今は、ここで留めておこう。


参考1: Pentagram image from Heinrich Cornelius Agrippa 's Libri tres de occulta philosophia illustrating the golden symmetry of the human body. The signs on the perimeter are astrological .
http://en.wikipedia.org/wiki/Pentagram

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A better version of a previous pentagram image from Heinrich Cornelius Agrippas book. Taken by myself.



参考2:レオナルド・ダ・ヴィンチ によるウィトルウィウス 的人間像、科学と芸術の統合
画像:Vitruvian.jpg
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■潜在意識とは何か


潜在意識とは、コスモス意識ではないのか。「わたし」の意識、あるいは、特異性の「意識」をはるかに超越した「無意識」ではないのか。この点では、フロイトの無意識論より、ユングの普遍的無意識論の方が、当たらずと言えども遠からずであろう。そう、これを、「神」と呼べるだろう。これは、内在的超越神である。しかし、不可知的な要素をもっているだろう。そう、「わたし」の特異性は、「神」とつながっているのだ。コスモスとつながっているのだ。
renshi (2006-08-02 06:56:41)



追記:

■差異共振性によって、潜在意識・コスモスに接続する

思うに、シャーマニズムとは、差異共振意識から、潜在意識・コスモスへと接続するときに、生じてくる精神現象ではないだろうか。
 このとき、他者が主体を介して、表現するのだろう。正に、主体は霊媒mediumとなるのである。他者によって憑依されるのである。
 そう、他者は、コスモスの差異であったり、コスモスの多様な声であったりするのではないだろうか。
 私が問題にしたいのは、この他者が、知的存在である場合である。映画『惑星ソラリス』のように、知的存在としての惑星のような、あるいは、フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』のような知的情報体のような、知的存在としての他者である。
 プラトンの有名な想起説があるが、「わたし」は、他者の知的存在に接続して、そこから、情報を無意識のうちに取り出しているのではないだろうか。私が思考するとき、そこへ接続して、そこの直観的ヴィジョンにおいて思考しているのではないだろうか。つまり、私の思考とは、他者の知的意識に一体化して、そこから、直観知を取り出しているのではないだろうか。言わば、他者である知的存在の知恵を私は借りているのではないだろうか。あるいは、他者である知的存在に即して、思考しているのではないのか。後で、さらに検討したい。
renshi (2006-08-02 23:17:21)

■他者である知的存在(コスモス)と共にあること?

私は、プラトンルネサンスとは、コスモス・ルネサンスであると考えている。コペルニクスガリレオらによって、古代宇宙(コスモス)が崩壊した。そして、近代科学的宇宙観が支配的になった。
 しかし、芸術家や詩人や思想家、その他は、コスモスを説いてきた。その代表にD.H.ロレンスをあげることができる。有名な『黙示録論』の掉尾で、「コスモスとわれわれとは一体である」と絶唱している。
 ロレンスは正しいだろう。モダンが終わり、プロトモダンとなるだろう。プロトモダン・コスモスの回帰である。
 コスモスとは内在的超越神であり、また、未来であり、過去である。私は死にそこへ回帰するだろう。そして、また、その子宮から、この世に出現するのだろう。そう、子宮としてのコスモスでもある。他界である。
 とまれ、コスモスとの共生とは、未来と過去との共生でもあるだろう。これを、取り戻さないといけない。コスモス的政治を取り戻さないといけない。世界都市とは、コスモポリスであるが、本当は、宇宙都市、コスモス都市である。コスモローカル主義が必要である。
renshi (2006-08-02 23:36:51)