新しい境界へ向けて:差異共振精神界と連続・同一性現象界

新しい境界へ向けて:差異共振精神界と連続・同一性現象界


テーマ:PLATONIC SYNERGY


差異共振コスモスが現象界の根源としてあるし、それは、人間や自然の内在超越次元として潜在していると考えられる。「心」とか、「倫理」、「道徳」は、ここから発して、意識合理化されたものだろう。そう、自然道徳とはあるだろうか。これは微妙である。原道徳・原倫理は、自然発生的であろうが、自然だけでは、道徳・倫理とはならないだろう。そこには、個の意志・意識・認識・知の介入が必要だろう。そう、理念化が必要だろう。精神化である。精神の起源は、自然にあるが、それを、理念化するには、知性が必要である。これが、「人間」の基本であろう。
 思うに、差異共振性だけで、倫理・道徳・精神が生まれるだろうか。否、こう言ってもいい。差異共振性は、倫理・道徳・精神である。しかし、人類の自然過程から、連続・同一性=「無明」・「マーヤー」化が発生して、自我が誕生する。これは、連続・同一性の意識であるから、潜在・内在超越する差異共振性は、連続・同一性化=反動化されるのである。だから、自然発生的には、道徳・倫理はありえないのである。脱連続・同一性=脱自我化したときに、差異共振性=倫理・道徳が生起すると言えよう。経験・教養・知性から、道徳・倫理が生まれるのである。(少女・少年には、道徳・倫理はないのである。現代日本人の大半は、少女・少年並みだろう。参考:『蝿の王』W.ゴールディング作)
 とまれ、私が言いたいのは、以上のことではなくて、差異共振コスモス性と連続・同一性現象性との関係のことである。結局、善とは前者であり、悪とは後者である。(この点で、グノーシス主義は正鵠を射ているだろう。ただし、その二元論は、間違っているとと考えられる。後で、検討したい。)
 問題は、欲望である。差異共振性とは欲望であるのか。あるいは、精神は欲望であるのか。そう、精神も欲望になりうる。上述したように、自我と結びつくと、欲望になる。例えば、「摂理」のように。現象界において、精神は、自我欲望化されているのである。(だから、ほとんどの宗教が胡散臭いのである。カルト化は後一歩であろう。)
 純粋な差異共振性=精神は、欲望ではない。しかし、現象界に生きる生物・生命体として、人間は、欲望に駆動されて生きているのである。他の生物を殺して、生きるのである。あるいは、他の人間の生命・生活・富を奪って生きるのである。餓鬼である。釈迦牟尼は、二千数百年前にこれを直観洞察した。大変に深い、畏るべき直観洞察力である。
 とまれ、生きる上で、差異共振性と欲望を調和させることが「正義」であろう。(ここから、新自由主義批判が出る。)思うに、古代人は、前者を神として、後者をこの世として、捉えて、両者に境界を置いたのではなかっただろうか。結界という発想がそうだろうし、あの世とこの世という二元論もそうだろう。(参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%95%8C

近代主義世界観は、この「正義」の実現に失敗した。確かに、民主主義的理念があり、自由主義個人主義・資本主義理念がある。しかし、両者、精神と欲望は、調和せずに、後者が前者を蹂躙しているのが現状・実情である。だから、私は、新たな境界が必要ではないのか思ったのである。両者の境界が確定していないために、後者が前者を蹂躙すると考えられるのである。
 では、新しい境界とはどういうことなのだろうか。ここで、もう少し、連続・同一性現象=欲望の構造について考えよう。これは、五感の欲望構造から発しているだろう。つまり、同一性の欲望である。五感で知覚したものを欲望するメカニズムが、現象界にはあるだろう。おいしい食べ物がある。それを見て食欲が湧く。それを欲しいと思う。そのたえには、買うか、盗むかである。そして、後者は、犯罪であるから、止めて、前者を選ぶとすると、その反復のために、貯蓄が必要である。これは、同一性の蓄積である。おそらく、貯蓄には、同一性の理念がある。つまり、同一性の構造である。これは、カントの超越論的形式と等価であろう。つまり、欲望構造形式である。おそらく、ここにゲシュタルトが存している。原型である。例えば、花を見て、美しいと感じるが、その花のゲシュタルトが、ここにあるだろう。性欲のゲシュタルトもここにあるだろう。
 不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界の現象面にこの欲望構造=ゲシュタルトがあることになる。つまり、連続・同一性現象欲望原型構造である。(思うに、唯識論の阿頼耶識とは、ここに存するのではないだろうか。また、精神分析の無意識もここのことを言っているのではないだろうか。精神分析の無意識は浅いのである。)有り体に言えば、色欲・無明・自我・無知・戦争の構造である。(プラトン哲学や仏教、等は、ここから脱却するための叡知を説いてきた。)自然過程では、ここに陥るのである。
 結局、精神と現象とのバランスをどうとるのかである。現代は近代唯物論のために、精神が物質の派生物のように思われている。結局、近代主義は、二元論であるが、唯物論的二元論で、帰結的に、物質一元論である。そのために、本当の二元論が喪失されていると言えよう。精神と現象との二元論の喪失なのである。この二元論があれば、新たな境界が可能となるだろう。そして、このためには、新プラトンルネサンス=新イデア論が必要であると考えられるのである。正確に言うと、イデア論は、イデア一元論である。しかし、これは、精神と現象との二元論を発生させると言えよう。しかし、精神/現象の二元論とは、実は、内在超越論のことである。だから、二元論というのは、一種議論の都合のことである。
 結局、新イデア論プラトニック・シナジー理論・PS理論)によって、精神と現象との二元論が発生して、新たな境界が生まれるだろう。差異共振性という精神と連続・同一性である現象との境界である。
 そうすると、どういうことになるだろう。それは、前者と後者との別々の構築が必要であるということになるだろう。差異共振世界の構築であり、連続・同一性世界の構築である。そして、前者が主となり、後者が従となるだろう。精神主現象従である。この主従の二元論が必要なのである。
 では、具体的にはどうなるのだろうか。それは、差異共振生活と現象生活との共立であろう。現代は、後者中心で、前者が損なわれているのである。というか、否定・排除・隠蔽されているのである。生涯教育というのは、前者になるのである。しかし、資本主義生活は、後者中心で、前者が欠落しているのである。思うに、資本主義の富を前者のために活用する必要があるのである。つまり、精神社会のために富を消費するのである。能動的消費である。このためには、知のコペルニクス的転回・パラダイム転換が必要である。新プラトンルネサンスである。新イデア論の顕現である。