「わたし」とは何か:超越自我と現象自我:精神現象界としての自然と

「わたし」とは何か:超越自我と現象自我:精神現象界としての自然と差異共振シナジー資本主義

「わたし」とは正に、連続・同一性=自我である。これは、はっきり言って、仮象である。仮象としての「わたし」である。真実在は、差異共振シナジーとしての「わたし」である。問題は、それを、「わたし」と呼んでいいのかである。つまり、精緻に言うと、差異共振シナジーとしての「わたし」と連続・同一性の「わたし」が共立しているのである。内在超越次元の「わたし」と現象の「わたし」が共立的に存在しているのである。この関係は実に微妙であろう。
 脱連続・同一性化された「わたし」(フッサール現象学的に還元された「わたし」)は、差異共振性を内在超越化させているし、同時に、連続・同一性的現象性を感覚知覚しているとは言えるだろう。しかし、「わたし」は、自我のように後者に一体化してはいない。連続・同一性現象に一体化しているのは、自我ないし中心化された個体である。そう、いわば、四次元に存する「わたし」である。四次元と言っても、時空四次元ではない。精緻に言うと、時空四次元+内在超越次元の超時空五次元に存しているだろう。
 とまれ、時空四次元を内在超越している「わたし」である。それは、脱自我とは言えるのであるが、しかし、「わたし」が消えたわけではない。そう、脱連続・同一性自我とは言えるだろう。脱現象主義的自我である。言葉だと分かりにくくなるのであるが、もし、連続・同一性現象と一体となっている「わたし」を自我とするなら、超時空五次元の「わたし」は、超・自我である。
 どうも、自我という言葉が混乱を招くようだ。しかし、「わたし」は、自我である。ならば、自我は、単に現象界だけに存するものではないのである。現象自我、現象中心主義自我、連続・同一性自我とは別の、超時空五次元の自我が存するということになる。簡単に、超越自我とでも言えるだろう。それに対して、現象界と一体化している自我を現象自我と言えよう。よく、宗教関係で、自我を無くすという言うが、それは、現象自我を無くすということであり、超越自我になるということである。しかし、超越自我とは、現象自我を包摂しているのである。だから、無くすというのは、語弊がある。現象自我の変容である。現象自我の「進化」である。(そう、内在超越性・差異共振性とは、仏教の「空」だろう。「悟り」とは、この超越性を獲得にあるだろう。)
 そう、この超越自我であるが、それは、現象自我と共立しているのであり、常に、他者としての現象界に接している。だから、プロセスとして超越自我は存すると言えよう。つまり、超時空五次元自我は、時空四次元自我の現象界にあって、時々、日々、差異共振精神界と連続・同一性現象界との中間界の力学過程にあると言えよう。これは、差異共振精神界を現象界において創造的に実現するための努力とも言える。現象界という悪の世界を、差異共振精神界という善の世界に変容させるための努力とも言えるだろう。
 コスモスという精神界があり、その連続・同一性化としての現象界がある。次元を考えると、精神界が一次元であり、現象界が四次元となる。しかし、ガウス平面を精神界とするなら、二次元になる。すると、全体で、六次元となる。イデア界/メディア界でガウス平面を形成していると考えるのである。とまれ、結局、本来の生(真生)とは、精神界と現象界の中間過程(いわば、即非過程であろう)にあって、後者を主として、前者を創造変容することなのだろう。


 最後に、連続・同一性現象界の意味を考えよう。そう、美の問題でもある。これは、メディア/現象境界の問題だろう。ここは、実に不思議な世界である。連続・同一性の原型による「美」がある。感覚美と言っていい。しかし、これは、差異共振シナジーの+エネルギーがもたらすものである。つまり、コスモスの一つの形相として、「美」があるだろう。だから、現象美は、本来、差異共振シナジーがもたらしたものである。つまり、精神の発現としての現象美である。つまり、現象美とは精神美なのである、本来。しかし、現象自我は、これを、単に現象美として欲望するのである。つまり、本来、精神美であるものを現象美として欲望するのである。イギリスの詩人・版画家であったウィリアム・ブレイクは、女性の裸体は神の作品であるというようなことを言った。おそらく、精神美の発現としての女性の裸体があるのだろう。それを現象自我が欲望の対象とするようになっているのである。ゲシュタルト原型によって、欲望対象となるのである。この構造は実に微妙だろう。
 精神美と現象美の境である。差異共振シナジーが連続・同一性化されるのである。そう、ここには二重性があるだろう。精神美と同時に現象美がある。両者のゆらぎがある。差異共振性と連続・同一性のゆらぎがある。後者が中心になると、欲望対象となる。思うに、ここは、真のエロスの領域だろう。D.H.ロレンスの世界である。折口信夫の世界である。あるいは、万葉集の世界であろう。あるいは、真の女性の世界であろう。そう、コスモスの世界である。差異共振性と連続・同一性の揺らぎの世界である。精神愛であったり、官能愛であったり、揺らいでいる世界である。おそらく、これは、精神でも、官能でもない、世界である。精神即非官能の世界である。精神は精神であり、精神でなく、官能は官能であり、官能でない、世界である。霊妙と言ってもいいのかもしれない。
 少し発想を変えよう。バッハ音楽やヘンデル音楽、セザンヌ絵画やフェルメール絵画の、「美」とは何だろうか。官能美だろうか。それは違うだろう。セザンヌの場合、差異共振シナジーの美を表現していると思う。だから、精神の表現なのである。いわば、精神感覚美である。精神感覚美は、連続・同一性現象官能美とは異なる。それは、欲望の対象とはならないだろう。(コレクターは別であるが。)
 私は、精神美への志向性を言語化したいのである。それは、欲望ではない。愛でもない。憧憬のようなもの。プラトンがエロースと呼んだもの。情(じょう)と呼んだらどうだろうか。ならば、精神美への情である。精神情である。精神美情である。この精神美情と官能性が混同されやすいのである。情と欲望の混同である。精神美情、これが、真正の芸術の喚起する主観性であろう。セザンヌの絵画には、精神美があり、それが、精神美情を鑑賞者に喚起するのである。官能とは違うのである。フェルメール絵画も精神美情を喚起するのだろう。
 では、精神美情と官能欲望の関係はどうなるのだろうか。ブランドに群がる日本の女性は、一種官能欲望に駆り立てられている。醜悪である。しかし、ブランド製品は本来、精神美の作品である。精神美情をもっているはずである。デザインも、精神美である。別稿で述べたことを考えると、精神美と欲望とを調和させることが正義となる。プシュケーとエロースの結婚。というか、プシュケーエロースであろう。精神のエロースがあるのである。コスモスのエロースがあるのである。プラトンの白い馬がこのことである。思うに、差異共振シナジーという精神界(メディア界)があり、それの発露が現象界である。しかし、精神の強度に違いによって、現象への感覚質が異なるのだろう。感覚質において、精神美を知覚する人、あるいは、単に官能美を知覚する人がいるだろう。精神の現象として、現象界はあるだろう。精神現象界である。(p.s. 思うに、精神美と現象欲望が揺れ動いているのが、実際のところだろう。)


 この精神現象界を物質現象と見るのが、近代主義である。近代科学である。これは、連続・同一性自我に基づく世界観である。ここには、差異共振精神が欠落しているのである。現象は差異共振シナジー現象としてあるのである。それは、連続・同一性という仮象をとるのであるが、本体は、差異共振性である。だから、本来、現象知覚には、精神性があるのである。だから、神や「霊」とか、古代人は、想起したのであろう。この本来の現象知覚を連続・同一性で固定したのが、近代主義である。連続・同一性現象が物質となったのである。そして、これが数量化されたのである。つまり、連続・同一性の形式に数量の単位が与えられて、自然現象が近代科学化されたのである。カントの超越論的形式の世界である。差異共振精神感覚を排除したのである。この近代自我・近代合理主義知覚は、結局、物質的身体・肉体の発想を生み、精神感覚美に物質的肉体欲望が取って代わったのである。精神感覚美の排除である。芸術の死である。また、自然の死である。当然、神の死である。人間の死である。これは、自然の本体から切り離された状態である。無明である。差異共振精神という本源に逆らっているのである。外道状態である。倒錯状態である。狂気・錯乱である。(p.s.  連続・同一性形式が数量化され、固定されたものが物質である。そして、これを認識する主体が、近代的合理主義自我となるのである。ここでは、差異共振精神性が否定・排除・隠蔽されているのである。結局、この失われた差異共振精神/コスモスを探求するのが、天才的な詩人や哲学者等の営為であったと言えよう。)
 これは、いったい、何を意味するのだろうか、自然にとって。これまでの思考に拠れば、連続・同一性志向である+エネルギーに換わって、不連続・差異志向である−エネルギーが発生するのである。つまり、いつかは、+エネルギーの世界は終焉して、−エネルギーの世界になるのである。そして、これは、差異共振精神の世界である。これは、必然である。新自由主義は、基本的には、+エネルギーの発想である。差異共振経済、差異共振資本経済とはないのだろうか。資本主義は、差異と同一性の即非関係にあるとは言え、利益追求中心であるから、同一性が主導的であった。つまり、同一性資本主義であった。しかるに、差異共振資本があるのではないだろうか。差異共振シナジー資本である。簡単に共振資本、シナジー資本である。これは、一見、アソシエーションに似ているが、それとは異なる。アソシエーションとは、連続・同一性の連合体だからである。アナーキズムはそういうものだろう。差異共振シナジー・エコノミーとはそれとはまったく別のものである。不連続的差異共振シナジー資本経済なのである。
 共振資本主義、レゾナンス・キャピタリズム。これは、連合体ではないことは、いくら言っても言い過ぎることはないだろう。差異共振シナジー体である、言わば。レゾナンス・シナジーキャピタリズムである。共振シナジー資本である。おそらく、共振シナジー企業が存在しているのだろうし、これが、これから、革命的に進展するのだろう。共振シナジー相転移である。そう、小沢一郎の共生主義は、共振シナジー政治である。小泉首相新自由主義とは、確かに、連続・同一性の癒着を打破する志向性をもっているが、実際は、巨大な連続・同一性の資本主義に尽くす結果となったのである。そう、連続・同一性資本主義から差異共振資本主義への、いわば、コペルニクス的転回が必然なのではないだろうか。(p.s.  精神社会に資本を贈与する企業には控除が適用されるべきであろう。思うに、地方自治体への贈与と企業自体による精神社会構築の両面が必要だろう。ここで、ホワイトヘッドの「有機体」論が活用されるかもしれない。企業が「有機」的な精神社会、コスモス社会を創って行くのである。政治・経済・社会・文化シナジーが生まれるだろう。これは、案ずるより産むが易しのような気がする。共振シナジー資本が横断的に動くと、それに引き寄せられて、他の共振シナジー資本が集まるからであるし、また、多様なところで、実践されると考えられるからである。)

p.s. 失われた差異共振シナジー精神コスモスであるが、それは、物理学では、相対性理論量子力学で、物質科学というフレームにおいて、探求されたと言えよう。光速度一定の原理とは何か。それは、空間が、物質化された現象空間ではないことを意味するだろう。つまり、差異共振シナジーの+エネルギーが連続・同一性志向性であり、これが、光速度一定という意味であろう。即ち、同一性志向性エネルギーは、差異共振シナジー界において、共通・等価であると考えられるからである。この共通・等価の同一性エネルギーが光のエネルギーと考えられるのである。そして、これが、光速度一定となるのである。
 では、−エネルギーは、何だろうか。−E=mc^2である。すると、−E/m=c^2であり、c=±√−E/m =±√−1×E/m=±i√E/m となるだろう。つまり、光は、虚数化されている。とまれ、同一性志向性が光速と関係すると考えられた。
 量子力学は、差異共振シナジーの極性エネルギーを、物質的視点から捉えようとしているのではないだろうか。同一性志向と差異分立志向の対の志向性を捉えようとしているのではないだろうか。例えば、粒子と波動の相補性は、粒子とは、差異分立性の反映であり、波動とは、連続・同一性の反映ではないだろうか。ここで、量子力学の問題点をあげると、粒子を物質と捉えているのが、誤りだと思えるのである。それは、差異分立性、すなわち、イデアの反映と見るべきだと思うのである。それも、零度共振界にあるイデアである。つまり、零度共振イデアである。これは、物質でないから、局所性・非局所性の問題は適用されない。超局所性である。
 ならば、量子の種類をどうみるのかという問題があるだろう。単純に見て、1/4回転の場合と、3/4回転の場合があるだろうし、また、+イデアと−イデアの場合があるだろう。だから、少なくとも四種類はある。今はここで留めたい。