マスコミと小泉/安倍自民党を哲学する

マスコミと小泉/安倍自民党を哲学する


[ 出アメリカ/ニッポン独立宣言2005 ]


簡単に述べたい。私は昔からマスコミ嫌いである。そう、十代の頃は、新聞の切り抜きをよくしたものであったが。では、いつから、マスコミ嫌いになったのだろうか。ずいずん、以前から、社説に偽善・欺瞞を感じたのであり、そこから、マスコミ嫌いになったと思う。簡単に言えば、口舌の徒であるということである。有言不実行だから、嫌いなのである。国民を代弁する発言をするが、それで終わっていると思う。否、代弁なら代弁でいいのであるが、あまりに見え透いたパフォーマンスに、嫌気が差したのである。だから、パフォーマンス屋の小泉首相の先駆者は、マスコミなのである。
 では、なぜ、マスコミはパフォーマンス屋になるのか考えよう。この問題は、これまでの近代主義批判がそのままあてはまると思う。マスコミという同一性を価値基準にしていて、差異を喪失しているからだろう。もし、マスコミに差異があるなら、それは、マスコミに勤務する一人一人という差異でなくてはならない。単独の差異が共立した、マスコミであれば、それは、立派なマスコミとなるだろう。しかし、社説を見る限り、差異はない。国民の代弁という同一性を価値基準にして、差異を排除しているのである。やはり、この代弁に問題があるだろう。代弁ではいけないのである。マスメディアの差異・特異性・単独性、絶対的単独性において、発言する義務があるのである。つまり、日本のマスコミは、近代主義的で、プロトモダン・原近代的ではないのである。つまり、根本から、日本のマスコミは、間違っているのである。邪悪である。
 次に、小泉/安倍自民党であるが、これも、同様の批判が適用できる。アメリカを同一性価値基準として、アメリカに従属しているのである。日本という差異を喪失しているのである。これが、たいへん危険なのは、アメリカは差異であるのに、アメリカに同一性価値を見ているからである。これも、根本的に誤謬なのである。
 結局、日本の指導機関は、近代主義的同一性に染まっていて、差異に盲目なのである。ここに、戦後・現代日本の幻想・妄想・狂気が存するのである。日本亡国である。国破れて山河無し。

p.s.  マスコミ批判をすると、どうも、嫌悪感で興奮して、冷静にならなくなるようだ。そう、虫酸が走るというのが実際のところである(近親憎悪なのだろうか)。ここで、冷静に考えてみると、マスコミに対する嫌悪感の原因は一つではなくて、いくつかあり、それが、集まって、強い嫌悪感を生むのだろう。


1.優等生的発言であり、真実を言っていない。当たり障りのないことを言う。凡庸な記事が多い。洞察力がない。批判力がない。これは致命的である。
2.記者自身の個性が乏しい。
3.国民の代弁をするが、しかし、国民は、多様であり、代弁はできないから、欺瞞的である。


まとめると、同一性価値観であり、差異がない。つまり、低能・低劣である。思うに、夜郎自大な尊大な人間が巣くっているのだろう。近代的自我の権化集団だろう。


p.p.s. メディアの大道は、ミクロ・メディアである。ミクロコミである。