『ターシャム・オルガヌム』の第18章も、至高の叡智の章である。

『ターシャム・オルガヌム』の第18章も、至高の叡智の章である。


テーマ:P.D.ウスペンスキー


なんと至高の叡智に満ち満ちた章であろうか。道徳論がすばらしい。


《人生の意味は「知識(知ること)」の中にある。すべての人生、あらゆる出来事、事故、興奮、誘引などは人を常に何らかの知識へと導くものである。あらゆる人生体験は知識である。人間の中にある最も強力な感情は、未知なものへの欲求である。愛でさえ(・・・)、未知のものへの誘引、新しいものへの好奇心なのである。》 p.260


《道徳、あるいはここで述べたような道徳的美学は、我々にとって必要不可欠なものである。それなしには、我々は非常に容易く、言葉は最終的には行為と関わっているのだということを忘れてしまうからである。・・・我々は二つの世界に生きている。その一方では自己を過度に制限し、それについて意見を言う前にあらゆる考えを注意深く分析する。逆に、他方の世界では、あらゆる類の妥協を容易に許し、見たくないものからすぐ目を背ける。そして我々はこの分離に折り合いをつけているのである。それはあたかも高邁な理念を実行に移す必要はないかのようであり、「現実」と「霊性」の間の分離という原則をつくりだしたかのようである。その結果が現代世界のあらゆる奇怪さ--人生における無数の虚偽--出版、芸術、演劇、科学、政治における虚偽である。》 
p.276


《「人間」には道徳が必要である。道徳という観点からのみ、人間の仕事と猿の活動を躊躇なく見分けることができる。同時に、道徳の領域ほど容易に錯覚が沸き上がるところはない。「自分の」道徳と道徳的説教に没頭することで、人は道徳的完成という目的を忘れ、目的は知識にあるということを忘れてしまう。彼は道徳自体の中に目的を見始める。そして、「良い感情」と「悪い感情」、「道徳」と「不道徳」というア・プリオリな区別が起こる。同時に、感情の目的と意義についての正しい理解は失われる。「良くあること」に没頭している人は、他のすべての人にも自分と同じであること、または自分の設定した遠い理想に適うことを求める。
 ・・・
道徳の暴君ほど残酷な暴君はない。
 ・・・
 しかし、人間には道徳が必要である。しかし、それは異なった種類の道徳--高次の知識の真のデータに基づく道徳でなければならない。人類は熱心にそれを求めており、おそらくそれを見出すであろう。》 p.277〜p.278


《科学、哲学、宗教、芸術は知識の形式である。科学の方法は観察、計測、経験である。哲学の方法は推理である。宗教と芸術の方法は道徳的または美学的な「感情的」示唆である。しかし、科学、哲学、宗教、芸術が本当に真の知識に仕え始めるのは、それらが直観を顕示し始めるとき、すなわち事物の内的な特質を感じ、見出したときである。》 p.279〜p.280


《・・・科学、哲学、宗教、芸術という区分そのものが不完全だということである。完全な宗教は、宗教、芸術、哲学、科学をその中に含んでいる。完全な芸術は、芸術、哲学、科学、宗教をその中に含む。完全な科学、完全な哲学は宗教と芸術を包含する。科学と矛盾する宗教、宗教と矛盾する科学は等しく誤りである。》 p.280