ユダヤ・キリスト教的西洋文明は超悪魔的文明である:連続・同一性志

ユダヤキリスト教的西洋文明は超悪魔的文明である:連続・同一性志向性の差異絶対否定の原動力がある


テーマ:ポスト・ユダヤキリスト教西洋文明


以下は、次の論考の後記を独立させたものです。「連続・同一性の指向性(+エネルギー)は身体的成長力ではないのか:極性エネルギーの反転と近代的反動」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016312701.html


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より根源的に考えると、唯物科学を生んだものは何であったのかという問題がある。直感では、デカルトの合理主義に問題があるのである。あいまいなものを否定し、排除するその合理主義力学に根因があるように思えるのである。精神性とは、唯物知性から見たら「あいまい」である。「あやふや」に思える。「いい加減」に思える。近代科学は、周知のように、確固たる、反復検証できる物質的証明を根拠として発展したのである。このデカルト合理主義(デカルトのコギトとは別の問題である)が、原因のように思えるのである。
 では、デカルトのこの合理主義の意志とは何なのだろうか。確かに、絶対的明晰さへの意志である。そう、これは、簡単に言えば、連続・同一性=プラス・エネルギーの指向性そのものだろう。連続・同一性の意志である。差異に対する否定である。そう、連続・同一性自我・近代的自我の意志である。
 どうも、ここに、途轍も無い事態があると思う。このデカルト的意志によって、世界は、唯物科学・技術主義となったのであるから。そう、ここには、真理への意志がある。誤謬に対する徹底的排除の意志がある。真理への自我意志と言ってもいい。これは、換言すると、ある事柄・事物は、Aであり、〜Aではない。つまり、ある事は、Aであるか、あるいは、非Aであるかのどちらかということである。排中律アリストテレス論理学である。これは、現象形式論理学である。これが、思うに、デカルト的合理主義を裏付けていると考えられる。
 つまり、唯物科学の根因は、アリストテレス論理学・現象形式論理学であるということになるのである。この、いわば、形式論理学イデオロギーが近代科学・技術、唯物科学・技術の根底にあるということになる。
 では、さらに疑問を突き詰めると、何故、このイデオロギーに染まるのかである。それは、やはり、真理への意志である。知への意志である。ならば、なぜ、真理を意志するのか。換言すると、認識衝動である。ファウスト衝動と文学・思想の世界では言っているが。これは、結局、連続・同一性指向性のことであろう。ある現象に対して、連続・同一性指向性は、それを、当然、連続・同一性化するのである。それが、認識衝動である。結局、連続・同一性認識指向性が、この場合の、真理への意志と言えよう。プラス・エネルギーである連続・同一性指向性の認識衝動が、デカルト的合理主義の基盤・土台・根底にあるということになった。考えれば、連続・同一性志向性は、当然、二項対立の志向性であり、差異を徹底的に否定・排除・隠蔽するのである。「魔女狩り」である。「異端審問」である。西洋文明とは、ユダヤキリスト教文明とは、連続・同一性志向性の、超悪魔的文明なのである。