思考実験:時間次元について:超越論的形式としてのメディア平面(Y

思考実験:時間次元について:超越論的形式としてのメディア平面(YZ平面・超次元平面)と三次元空間現象(仮象


テーマ:高次元・幾何学・形態論


幾何学の問題、次元の問題は、難しい。例えば、どうして、空間は、三次元なのか。ウスペンスキーは、時間も、本来、高次元の空間であると考えている。つまり、時間高次元空間である。どうも、高次元という用語が、わかりにくいように思う。つまり、超次元である。超次元としての高次元である。そして、この超越であるが、絶対超越ではなくて、内在超越である。例えば、三次元空間と二次元空間との関係を見ると、二次元空間にとって、三次元は、内在超越空間と考えられる。絶対超越ならば、認識できないはずである。ということで、内在超越次元として超次元を考えることにする。
 すると、ウスペンスキーの思想は、時間は本来、超次元にあるとしている。超次元空間が、時間を発生させていると考えている。当然、超次元とは、第四次元であり、全体で四次元空間となる。そして、ウスペンスキーは、これを、永遠の時間と考えている。つまり、ここでは、時間は、流れないのである。時間が空間となっているのである。過去は、未来と同時存在しているのである。また、永遠の現在となっているのである。いわば、永劫空間である。この四次元の見方は、相対性理論の時空四次元の見方と混同されやすい。時空四次元の時間次元とは、いわば、仮想次元、ヴァーチャルな次元であり、現象的には、不可視のものである。だから、観念・思念・思考上の次元である。理念的次元と言ってもいいのかもしれない。
 すると、相対性理論では、時間次元が理念的次元であり、ウスペンスキーの超次元としての原時間次元を考えているということになる。思うに、これは、一体化できるのではないだろうか。理念的次元としての時間次元と超次元としての原時間次元を、理念的次元=超次元として、一体化できるだろう。つまり、「イデア」的存在としての「時間」である。「イデア」的存在としての「時間」とは、永遠の時間であろう。直観では、エネルゲイアである。超次元=「イデア」次元=エネルゲイア=永遠次元である。これが、時空四次元現象を発生させているということだろう。つまり、いわゆる、時間現象とは、超次元の影であるということである。そして、さらに、空間現象も、超次元の影であろう。そう、カントは、超越論的形式を提起したのである。即ち、時空四次元現象とは、超次元・「イデア」次元・エネルゲイア・永遠次元の影であるということになる。直観では、この超次元は、不可分時空次元である。これは、おそらく、不連続的差異論のメディア界である。プラトニック・シナジー理論の零度差異共振シナジー界である。あるいは、コスモスである。プラトンのコーラである。これを作業仮説としよう。つまり、超次元メディア界、超次元コスモス界、超次元差異共振シナジー界が存在し、それが、時空四次元現象を仮現・仮象させているということである。
 この超次元・四次元は、零度差異共振シナジー相であり、エネルゲイアであり、極性エネルギーをもっている。ここで、思考実験すると、プラス・エネルギーのとき、現象の光が発生して、時空四次元現象が発生するとしよう。そして、マイナス・エネルギーの場合、時空四次元現象が解体して、超次元(差異共振シナジー相・コスモス)が顕在化するとしよう。つまり、プラス・エネルギーが発動するときは、発光現象があり、これが、時空四次元現象、空間三次元現象を仮現する。しかるに、マイナス・エネルギーが発動するときは、光ではなくて、闇が発生して、超次元が顕在化するということにしよう。
 では、問題は、どうして、プラス・エネルギーのとき、三次元空間が仮現するのかということである。連続・同一性作用は、どうして、空間三次元ないし時空四次元現象を仮現するのか、ということである。ここで、思考実験して、1/4回転で、垂直に捩れるということで、XY平面に対して、+Z軸方向に捩れるのである。Y軸・虚軸を零度差異共振界とすると、+Z軸方向への捩れをプラス・エネルギーの方向としよう。つまり、XY+Zの三次元空間を現象界としよう。捩れによって、時間も発生するとしよう。結局、XY+Zが時空四次元現象界である。
 それに対して、−Z軸方向への捩れをマイナス・エネルギーの方向としよう。つまり、XY−Z三次元空間である。+Z方向が光の現象であり、−Z方向を闇の現象としよう。結局、現象とは、一般に前者だけであり、後者を看過しているのだろう。
 とまれ、私が問題にしたいのは、この光と闇の極性現象ではなくて、Z軸以前の事象である。
 ここで、発想を変えよう。私は、二年前、メディア界を平面としてイメージして、半面をイデア界、半面を現象界と考えた。これは、実に単純なイメージである。だから、メディア面ないしメディア平面と呼ぶことができる。メディア平面の不連続極が、イデア界の方向であり、連続極が、現象界の方向である。
 では、この平面は、どこに位置しているのだろうか。ここで、また、思考実験すると、XY平面(ガウス平面)が垂直に捩れて、YZ平面になるとしよう。後者をメディア平面としよう。そして、YZ平面において、+X軸と−X軸方向がある。とりあえず、+X軸方向に現象界、−X軸方向にイデア界があるとしよう。それらを、三次元と三次元としよう。計六次元である。
 だから、YZ平面=メディア平面が超次元となるのではないだろうか。これが、無限次元・永遠次元・コスモス次元ではないだろうか。今は、ここで留めたい。


p.s. YZ平面が超次元ならば、空間三次元現象は、どう説明されるのだろうか。ここで、カントの超越論的形式論が想起されねばならないだろう。つまり、人間の主観にある形式(ほぼ、構造主義の構造)が、時空間四次元現象を生んでいるという考え方である。



 即ち、YZ平面を、この場合、超越論的形式にするのである。そして、ここから発する「光」によって、主体は、いわば、投影して、時空間四次元現象を仮現・仮象させていると考えられないだろうか(参照:プラトンの『国家』の洞窟の比喩)。この投影された影像が、いわゆる現象である。プラトンの洞窟内のスクリーンに映し出された影像である。おそらく、この考えは、それほど、突拍子もないものではない。なぜなら、平面知覚が基盤にあって、それから、立体化されて認識されると考えられるからである。網膜を考えられるといいし、片目で見ると、明らかに、奥行きの次元が喪失されるようになるだろう。



 ということで、人間は、超越論的形式である超次元のYZ平面を、通常は、意識せずに、そこから投影された仮象を時空間四次元現象と知覚しているということになるだろう。このYZ平面が、いわば、無意識・潜在意識であり、また、ほぼ、構造主義の構造と考えられるのである。つまり、YZ平面という二次元が、時空間四次元を仮象させていることになる。さらに言えば、XY平面(=ガウス平面)が、根源にあることになる。総合して考えると、現象(仮象)の空間三次元に対して、超次元二次元空間があり、さらに原超次二次元空間がある。即ち、超次元三次元空間ないし超次元立体空間(XYZ空間・立体空間)が内在超越・潜在していることになる。すると、現象三次元+超次元三次元=六次元となる。


p.s. 時空四次元現象の時間は、どこから発生するのかという問題・疑問に対しては、当然、時空間の超越論的形式である超次元・YZ平面・メディア平面から、空間と同時生起するということになる。


p.p.s. ウスペンスキーが『ターシャム・オルガヌム』で述べている高次元とは、超平面・YZ平面・メディア平面に相当するだろう。
 ウスペンスキーは、時間を四次元に、そして、永遠を五次元としている(同書:p.46)。ウスペンスキーの考え方に合わせると、四次元(時間次元)はZ軸次元、五次元(永遠次元)はY軸・虚軸となるのだろう。つまり、『ターシャム・オルガヌム』において、四次元と五次元という「高次元」(超次元)は、Z軸次元とY軸・虚軸を合わせた超平面・メディア平面、即ち、差異共振シナジー平面(新たな造語)になると言えよう。
 整理すると、XYZ三次元という超立体次元があり、ABC三次元という現象立体次元があり、合わせて、六次元空間として、コスモス・「宇宙」は構成されているという仮説となる。


3p.s. いわゆる、時間、通常の現象における時間であるが、それは、明らかに、仮象ないし仮想である。それは、超平面・YZ平面・メディア平面から、投影される時空間現象において仮象・仮想されるものである。


4p.s.  ついでに言えば、ドゥルーズガタリの内在平面という概念であるが、彼らは、連続性の概念に囚われているので、現象に内在する、差異の共立する平面を考えているのである。内在平面は、当然、現象界と連続しているのである。つまり、内在平面における差異は、微分である。
 しかし、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論から見ると、明らかに、内在平面という概念は誤謬である。内在平面ではなくて、超平面・メディア平面(内在超越平面ないし内超平面)である。超平面・メディア平面と現象界とは、連続的ではなくて、不連続なのである。これが、最高度に決定的なポイントである。
 「超越」の問題は微妙なところがあるが、混乱をまねいているのが、超越神の観念である。これは、あきらかに、論理的に誤謬だと考えられる。もし、絶対的に超越しているならば、認識不能のはずである。預言者とか救世主は、詭弁・誤魔化し・虚偽であると言うしかない。先にも述べたが、超越神は、内在超越神ということである。
 だから、議論を明快・明確にするために、超越とは、必ず、内在超越であると定義したい。即ち、超越=内在超越である。また、超越論性であるが、それも同じことを意味しているのである。即ち、超越論性=超越=内在超越のことである。
 ということで、ドゥルーズガタリは、『哲学とは何か』で、フッサール現象学の超越性を内在性の観念から批判しているが、これは、誤謬であり、フッサール現象学の方が、正しいのである。カント/フッサールの超越論哲学の方が、真理的であり、ドゥルーズガタリの内在論哲学(=連続論哲学:ヘーゲルベルクソンハイデガーの系譜)は、虚偽的なのである。