空間の上下・左右・前後の区別について

sophiologist2006-09-06

空間の上下・左右・前後の区別について



テーマ:高次元・幾何学・形態論


次のように、ヌース理論の半田氏は空間観念について述べている。

《空間-コミュニケーション、そして倫理

 僕らは空間に対してあまりに無頓着だ。空間は単なる現象を包括する3次元の巨大なコンテナなどではない。空間を考察するには身体との関連なくしては無理だ。空間はそれ自体では何ものでもない。空間を能動的なものに変容させるのは、ただ身体のみである。

 身体によって空間に方向が生まれる。空間に3次元の方向づけをできるのも身体があるゆえのことだ。その意味では、モノに方向付けられた空間よりも、身体に方向づけられた空間の方がはるかに高次元的だと考えられる。厳密に言えば、モノには前後・左右・上下などない。それを決定するのは身体なのである。身体にとっての前後・左右・上下は絶対的である。たとえ重力から解放されようが、僕らが世界と接するのは「前」である。こうした前を3次元空間内の次元概念で表すことは不可能だ。それこそ空間と身体の結びつきを深く考察していくならば、宇宙の創造原理にまで達するに違いない。身体に刻まれた襞と空間に内在する襞はそれこそ同じ源泉を持っている。》

http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/08/post_c67b.html


「身体に方向づけられた空間」とは、何だろうか。とまれ、私の直観では、現象三次元空間に上下左右前後の区分が生じるのは、やはり、超平面・メディア平面・差異共振平面・YX平面に拠るように思えるのである。Z軸が上下になるが、おそらく、上下反対(倒立像)になっていると思う。+Z軸方向が、現象空間では、下方になり、−Z軸方向が、上方になるのではないかと予想される。また、超平面で+Y軸方向(おそらく、右方向だろう)が、現象空間では、おそらく、左方向となるだろう。左右逆になるのである。これは、正に、左右に関しては、鏡像関係である。

 では、前後はどうなのか。これは、YZ平面に対して、垂直方向であるが、しかし、X軸方向ではないだろう。X軸とは別の垂直方向ではないかと考えられるのである。つまり、こういうことように考えられる。YZ平面から投影される現象(仮象)空間とは、XYZ立体超次元とは、別個の立体空間であるということである。それは、XYZ立体超次元とパラレルな関係にある仮象空間ではないだろうか。とにかく、前者と後者は別世界と考えるべきである。つまり、YZ平面の投影空間としての現象三次元空間と見るべきであると考えられる。だから、上記したZ軸とY軸との対応関係は、あくまで、比喩と見るべきである。即ち、Z軸が投影(写像)されて上下方向軸に、Y軸が投影(写像)されて左右方向軸に、仮象・仮現されるのである。そして、前後方向軸であるが、これは、思うに、X軸とは直接関係がなそうである。これは、YZ平面から、現象平面が投影(写像)されるときの垂直方向が前後方向軸になるのではと考えられるのである。確かに、単純に考えれば、前後方向軸は、X軸の投影(写像)に見えるだろうが。しかし、実事象においては、YZ平面には、X軸の記憶はないはずである。だから、YZ平面と直交する方向とは、X軸とは別の垂直軸であると考えられるのである。この点については、後で検討。


p.s. 最後の箇所を補足訂正する必要がある。先に述べたように、XYZ超次元立体空間と現象三次元空間とは別個のものである。そして、YZ平面から投影(写像)された現象平面(仮象平面)とは、言わば、Y’Z’平面であるということである。だから、投影された現象空間(仮象空間)とは、Y’Z’X’空間であるということになると考えられる。


p.p.s. 半田氏の「襞」という観念は、ライプニッツドゥルーズ哲学に拠るもので、連続観念である。換言すると、「襞」とは、ドゥルーズガタリの内在平面の観念と共通すると考えられるのである。即ち、内在平面とは、現象空間に内在している「襞」ということだと思われる。そして、この内在平面とは、差異=微分という連続的差異から有機的に構成されている(ホワイトヘッド哲学)と考えられるのである。そう、内在平面=襞=微分空間=連続的差異・有機体空間である。そして、これが、生物学的には、ゲノム空間となるのだろう。しかし、これは、連続観念による仮象物質空間に過ぎないのであり、これは、全体化に帰結するのであり、ファシズム全体主義に、現代日本の政治社会空間につながると言えるのである。

3p.s. 内在連続空間(連続的差異=微分空間;おそらく、量子空間)は、とても興味をかき立てるものである。これまでの、ほとんどの哲学・諸科学は、ここを根拠・基盤・「インフラ」にしていると考えられるのである。そして、そこで、行き詰まっていると考えられるのである。(ニーチェフッサールは、この内在連続空間の壁をブレークスルーしたパイオニアであったが、彼ら以後、ほとんど、ウスペンスキーを除いて、進展させるものが途絶えてしまっていたと言える。)
 さて、ここで、簡単に、不連続的差異論の視点から考察してみると、内在連続空間とは、メディア界と現象界の境界・縁に当たる。メディア界をメディア平面と考えると、メディア平面の現象面が、内在連続空間であろう。ここで、簡単に図式化すると、


1.イデア界/
2.イデア・メディア境界=イデア面・イデア極/
3.メディア界=メディア空間/
4.メディア・現象境界=現象面・現象極/
5.現象界


となる。内在連続空間とは、4に相当するのである。現代の知は、近代科学もポストモダン量子力学、その他、ほとんど、4の領域に留まっているために、全体的な閉塞状況を呈しているのである。プラトン/カント/ニーチェフッサールウスペンスキーイデア論/超越論哲学の系譜が途絶えてしまっていたのである。(しかるに、2004年・平成16年9月にKaisetsu氏との合作で創造された不連続的差異論が、ブレークスルーとして、この系譜を創造的に復活・新生させたと考えられるのである。)このために、世界は、いわば、思想・哲学的沙漠となり、連続的思想→グローバリズム全体主義が支配的になってしまっているのである。
 私は、先に、ヌース理論が新たなイデア論と考えて期待したのであるが、やはり、内在連続空間の思想であった。半田氏のこの理論は、おそくら、内在連続空間理論の最終形態のようにも思える。哲学と幾何学量子力学を結びつけた体系化への冒険は、評価できるものの、理論的には、内在性という誤謬、そして、論理の支離滅裂さによって、醜怪なものとなっているのである。
 とまれ、内在連続空間理論を打破できたので、世界・人類は、新たな進化創造のエポックに入ったと考えられるのである。

注:画像は以下から。
http://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Shadowgraph.jpg