「アイデンティティ」又は、自己基盤の問題:デカルト哲学と「スム」

アイデンティティ」又は、自己基盤の問題:デカルト哲学と「スム」の不連続化というブレークスルー


アイデンティティ」とは何だろうか。これは、有り体に言えば、自己優越性のことではないだろうか。逆に言えば、自己劣等感である。もう少し、丁寧に見てみよう。
 これは、知の問題である。知ることで、「アイデンティティ」を形成しようとする。知ろうとする起源に、「心」の不安、頼りなさがあるのだと思う。これは、意識の志向性(ノエシスノエマ)に拠るように思える。つまり、人間の精神とは、根本的に知ろうとする志向性があるのであり、これが、充足されないと不安に感じるのである。デカルトのコギトは、正に、これを意味するだろう。つまり、志向性とコギトとは、根源的に、同一であると言えよう。つまり、「アイデンティティ」とは、思考のことである。コギトの思考である。差異の思考である。これで、「アイデンティティ」の問題を解明したとしよう。
 問題は、コギトが、近代的自我と結びついたことである。つまり、根源の不連続的差異の知的志向性=認識志向性が、同一性自我と結びついたことの意味である。これは、連続・同一性構造に拠ると言えるだろう。メディア界から現象界へと移行するとき、連続・同一性構造を経るのであるから、不連続的差異が、同一性自我、言い換えると、近代的自我へと変転・変換するのである。これが、コギトの意味ではないだろうか。自然の過程である連続・同一性の結果としてのコギトである。そして、近代的科学が生まれる。
 しかるに、コギトは、根本は、不連続的差異であるから、イデア界やメディア界を内包しているのである。これが、同一性自我に対して、「揺らぎ」ないし「間(ま)」を生起させる。この「揺らぎ」や「間」が、カントの物自体であろう。そして、コギト・エルゴ・スムとは、同一性自我と物自体とを一致させようという意志、欲望、当為のようなものであろう。
 こう見ると、カントは、コギトとスムを分離させたものと言えるだろう。ここで、想起するのは、ドゥルーズが、カント哲学について述べていたことで、超越論的形式と物自体の間に、反復としての差異があるというようなことを述べていたと思う。これは、とりもなおさず、「コギト」と「スム」との差異であろう。しかしながら、これは、正に、「ポスト・モダン」の様態である。差異と同一性との中間態である。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論から言えば、メディア/現象境界の構造力学である。そして、これは、デリダ脱構築理論とほぼ等価である。
 結局、「スム」を不連続化することが、ポイントだったのである。これを、実質的に、為し得たのが、ニーチェフッサールであるが、それを、充分に理論化できたと考えられるのが、不連続的差異論である。「スム(我在り)」の不連続化とは、「スム」の、純粋意識化・純粋主観/主体化・純粋認識化・志向性化であったと言えよう。つまり、「スム」に、フッサールの志向性(ノエシスノエマ)を発見したことであり、あるいは、「スム」に、ニーチェ永遠回帰を見たのである。これは、また、ウスペンスキーの四次元や五次元に通じるものである(p.s.  ウスペンスキーの四次元は、メディア界=差異共振シナジー次元を指し、その五次元はイデア界を指すのかもしれない。そう、時空四次元における時間、現象界の時間とは、メディア/現象境界構造エネルギーと結びついているだろう。とまれ、もし、四次元がメディア平面ならば、それは、正確には、五次元でなくてはならないだろう。そして、イデア界がガウス平面ならば、七次元となるのではないだろうか。しかし、ここは、微妙である。イデア界とメディア界で、三次元立体空間が形成される。だから、やはり、三次元現象空間とメディア平面二次元空間とイデア空間一次元の計六次元であろう。)。そう、「スム」がイデアであること、そして、ここから、共振的「スム」、間主観性、そして、差異共振シナジーが生まれることが、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論から判明したのである。


p.s. 以上の視点から、近代的自我の狂気について見ると、それは、正に、コギト・エルゴ・スムというイデオロギーによるものではないのか。本当は、コギトとスムの間には、「差異」があるのであるから。言い換えると、コギトによって、スムという本来の差異を覆い隠そう、隠蔽しようとする意識行為に狂気があると言えよう。この隠蔽行為が、他者への暴力となるのである。
 思うに、デカルトにおいては、コギトとスムとが分裂していたはずであるが、それを、一致させて、精神の分裂を無くそうとして、近代的自我を生んだと言えよう。
 そう、コギトとスムとの分裂、これが、「アイデンティティ」の不安を生んだと言えよう。スムという「闇」の力、これに近代人は耐えられずに、近代合理主義で、目隠し・目眩ししたのである。そう、スムは特異性、単独性であり、これは、絶対的孤独(=無ないし絶対無)なのである。これに、凡人は耐えられずに、連続・同一性的合理化をするのである。これが、近代的自我の狂気・暴力となるのである。
 しかし、なぜ、スムをそんなに恐れるのか。確かに、絶対的孤独である。無である。しかし、無限の無である。そう、スムは、言語同一性自我を解体するから、恐れるのだろう。成長過程において、形成される言語同一性自我を解体するので、恐怖なのだろう。やはり、近代化と言語同一性自我化とは結びついている(「初めに、言葉ありき」)。言語同一性自我化以前は、スムが基盤であったと思う。スムの生活世界があったと思われるのである。


p.p.s. 考えると、ヤハウェは、「我在り」という神である(創世記)。つまり、ヤハウェは、スムである。これは、どういうことだろうか。即ち、ヤハウェとは、「揺らぎ」ないし「間」の神である。
 問題は、ヤハウェ/エローヒム(神の複数)のことにつながるだろう。こう見ると、ヤハウェは、不思議な神である。無からの創造を、キリスト教では説かれる。無は、イデア界である。そして、「光あれ」とは、メディア界の事象であり、同時に、メディア/現象境界構造事象である。つまり、メディア界の原光と「光子」の両方を指しているように考えられるのである。
 とまれ、「我在り」・スムとしてのヤハウェの問題である。やはり、これは、デカルト哲学の先駆であるように思えるのである。メディア界の形成とその連続・同一性志向を意味しているように思えるのである。しかし、イデア界→ヤハウェイエス・キリストデカルトの系譜と見ないといけない。だから、ヤハウェは、端的に言えば、メディア界なのである。それも、メディア/現象境界に傾いたメディア界である。ここは、微妙である。理論の問題がある。
 精緻に考察しよう。ヤハウェは、メディア界ではなくて、メディア/現象境界構造の神である。そして、この境界が「我在り」・スムである。つまり、ヤハウェとは、「ポスト・モダン」の先駆である。ヤハウェは、エローヒム(神の複数)と結びつくのである。
 そうならば、コギトはどうなるのかである。コギトは、ヤハウェの、言わば、本体であろう。思うに、極言すると、コギトは、イデア界への回帰を志向しているのである。だから、コギト・エルゴ・スム(=ヤハウェ)なのであろう。
 そうならば、不連続的差異論とは、ヤハウェの不連続化であり、ヤハウェを、イデア界へと回帰させたことになるのではないだろうか。つまり、不連続的差異論とは、正に、ポスト・ユダヤキリスト教なのである。ポスト西洋文明なのである。


3p.s. イスラム教は、どう位置づけられるだろうか。私は、これまで、イスラム教は、確かに、一神教であるが、ユダヤキリスト教とは異質であると説いてきた。つまり、ユダヤキリスト教が同一性を基盤にしているのに対して、イスラム教は差異を基盤としている宗教である。イスラム教のタウヒード(同一性)とは、いわば、差異の共立を意味していると考えられるのである。つまり、イスラム教とは、メディア界の宗教であると考えられるのである。ただし、一神教の枠をもっているので、完全なメディア界の宗教ではないだろう。一神教の枠とは、連続・同一性構造のことである。換言すると、イスラム教とは、「ポスト・モダン」から一歩、不連続的差異論に近づいた宗教であると考えられるだろう。
 では、イスラム教とデカルト哲学はどのような関係があるだろうか。デカルト哲学が、イデア界への回帰への志向(コギト)をもっていたが、メディア/現象境界構造(スム)に帰結したの対して、イスラム教は、メディア/現象境界構造(スム)からの脱却を志向していたと考えられるのである。つまり、よりコギトの方向をもっていたと言えるのではないだろうか。デカルト哲学よりも、イスラム教は、イデア界の志向が強かったために、メディア界への志向が生起したように思えるのである。イスラム教の共同体は、差異共振シナジーの社会・生活世界を示唆しているように思うのである。
 ならば、端的に相違点は何なのだろうか。両者、イデア界への志向をもつ点では、共通であるが、環境がまったく異なっていた点にあるだろう。デカルト哲学の環境は、西欧の同一性言語構造環境であり、イスラム教の環境は、形而上学的環境である。形而上学と言っても、メディア/現象境界のそれではなく、メディア界のそれであると思う。やはり、「初めに、言葉ありき」の誤訳が効いていると思う。
 形而上学という言葉であるが、これは、今や、あいまいだから、できるだけ避けた方がいいだろう。問題は、メディア/現象境界の超越論的形式構造である。これは、確かに、形而上学に含めることができるのであるが、完全な内在超越界ではない。思うに、とりあえず、超越境界ないし超越構造界と呼ぶことができるだろう。そして、内在超越界ないし超越界と区別することができる。
 そうすると、デカルト哲学の環境は、超越境界(超越構造界)の環境であり、イスラム教は内在超越界(超越界)の環境にあったと言える。



4p.s. それでは、西田哲学や鈴木大拙の仏教思想は、どういう位置づけができるのだろうか。思うに、前者の絶対矛盾的自己同一の思想と後者の即非の論理学も、同一の思想・理論と見ることが出来ると思われる。AはAであり、且つ、非Aである、という論理学である。ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」と同一である。第三の論理学ないし原論理学である。この論理学は、対極性の論理学とも言えるのである。しかし、西洋哲学は、これを、弁証法と混同してきたのである。弁証法とは、正に、超越境界の論理なのである。しかるに、東洋の論理学とは、超越界の論理なのである。
 当然、「ポスト・モダン」は、両者を混同しているのである。西欧における超越境界ないし超越構造界の強固さ、これが、メディア界の論理学の認識を阻害しているのである。
 では、何故、西欧ないし欧米において、超越境界・超越構造界・言語同一性形式が強固であるのか。それは、ニーチェが指摘していた、印欧語の言語形式に存すると考えられよう。主語+述語(動詞)の言語形式、この主語・述語論理が、超越境界・超越構造界・言語同一性形式であると思われる。つまり、主語は、自我ないし同一性自我となるのであり、それが、述語=メディア界的能動性を規定して、構造化すると考えられるのである。
 因みに、日本語は、主体と客体の共振言語であると思う。例えば、「虫の音が聞える」という場合、「わたし」と「虫の音」とが、共振して、一如になっているのである。つまり、日本語は、本来、メディア界の言語なのである。差異共振シナジー言語なのである。