イデア光と太陽光について:イシス・オシリス神話と父権的太陽神:ポ

イデア光と太陽光について:イシス・オシリス神話と父権的太陽神:ポスト・一神教


テーマ:ソフィエンスsophience


ここでも、直観から話していこう。
 イデア光とは、内在する精神の光、コスモスの光である。それが、現象光へと展開している。(今日は好天で、青空には、光が満ちている。)現象光の、現象的起源は、太陽である。しかし、現象光の真因は、精神界、メディア界、差異共振シナジー界である。ここが、原太陽ならば、それは、また、メディア平面ないし超平面である。それが、太陽を投影することになると言えよう。そう、あるいは、銀河や諸星雲等々を投影すると言うこともできよう。ここでは、太陽に限定しよう。
 メディア平面・超平面に原太陽があるなら、それは、当然、平面的である。ここにおける原点を中心とする円を考えると、現象界(これも、二次元ではないのか、本来。つまり、現象平面ではないのか。)に投影されて、太陽になるとしよう。つまり、メディア平面・超平面の円を、現象界に太陽として投影するということである。そうならば、イデア光とは、このメディア平面・超平面の円に関係すると言えよう。しかし、イデア光=円ではないだろう。なぜなら、イデア光は、原太陽を内包している全体・コスモスであるからである。つまり、原太陽はメディア・円であるが、イデア光全体ではない、という関係になるだろう。
 このように考えると、直観にそぐうと言えよう。即ち、イデア光の直観は、現象光や太陽を内包したものである。そう考えてみると、シュタイナーのキリスト論に対する、以前の疑問が解明されるだろう。キリストを太陽霊と呼んでいるが、太陽霊は正しくは、原太陽である。それは、メディア円である。しかし、これは、イデア光の一部に過ぎないのである。つまり、私見では、グノーシス的イエスは、イデア光の叡知を説いていたのに、シュタイナーは、それは、原太陽に限定してしまったのである。つまり、いわば、太陽系ないし原太陽系に限定してしまったのである。これは、グノーシスのイエスの叡知を貶めるものである。
 また、キリスト教本来であるが、先にも言及したが、キリスト教の光は、メディア/現象境界、超越境界、即ち、構造の光であると思うのである。これは、ヤハウェとも一致するのである。だから、キリスト教の光とは、悪魔の「光」である。つまり、闇である。
 ここで、イシス・オシリス神話を考えると、イシス・オシリスの対(つい)で、メディア界・共振シナジー界である。そして、オシリスイデア光を本来表わしているのではないだろうか。そうならば、イシスとは、何かとなろう。オシリスイデア光ならば、イシスはその基盤である。ここは、微妙な事柄である。思うに、零度差異共振事象がイシスであり、零度差異共振シナジー様態がオシリスではないだろうか。以前の私の考えは、差異共振事象全体が闇であり、その一部光として発現すると考えたのである。前者がイシスであり、後者がオシリスである。つまり、オシリスはイシスに内包されるということであった。
 そう、ここで、やはり、事象と様態を区別すべきだろう。あるいは、理的事象と理的様態である。後者は、一種エネルギー態である。エネルゲイアである。イデア光という原エネルギー=エネルゲイアを発出しているのである。ここは、実に微妙・霊妙な領域である。
 零度差異共振シナジーという事象があり、この事象において、原エネルギー=エネルゲイアが発生する。前者がイシスであり、後者がオシリスとなるだろう。換言すると、真言宗で言うと、金剛界曼荼羅が前者で、胎蔵界曼荼羅が後者にほぼ、相応するのではないだろうか。とまれ、簡単に言い直すと、イシスのエネルギー態がオシリスであり、イデア光であるということになるかもしれない。
 しかし、私の直観は異なるのである。直観では、イデア光はイシスである。あるいは、イシス・オシリスである。ここで、作業仮説すると、オシリスは、原太陽ではないだろうか。原太陽の基盤がコスモスでイシスである。だんだん、複雑ないし複雑怪奇になってきた。
 ここでは、二つの仮説が出ている。一つは、イシス・オシリスは、メディア事象と様態を指すというものであり、一つは、イシスは、メディア界総体・イデア光であり、オシリスは、原太陽であるというものである。これまでは、後者に近い考え方をしてきたのである。思うに、文化史的に、後者の方が適切なように考えられるのである。もし、後者が適切ならば、イデア光=イシスの一部としての原太陽ないし原太陽光=オシリスとなる。イシスはオシリスを内包しているということになる。そして、このメディア平面のイシス・オシリスが、現象界へと投影されて、全宇宙となるのである。だから、現象光は複雑である。それは、確かに、原太陽=オシリスの投影であると同時に、イデア光=イシスの投影に含まれるということになるのである。換言すると、現象光は、オシリスの光(原太陽の光)の投影だけでなく、イシスの光(イデア光)の投影であるということである。これが、イシス・オシリスの神話の意味だろう。
 ここで聖母子信仰のことを考えると、これは、キリスト教ではないと言えよう。これは、根源的宗教の一部であると言うべきである。カトリックは、キリスト教ではないものを含んでいるのである。
 さて、ここで、オシリスキリスト教ないし父権神話について考えてみよう。父権神話は、いわば、メディア界を同一性によって分裂させてものである。いわば、イシスとオシリスを分化させて、オシリスを太陽神として、優越化させ、イシスを異教神として、否定・排除するのである。しかしながら、オシリスはあくまで、イシスとともにある存在であり、この新たな太陽神とは似て非なるものである。ギルガメシュ叙事詩から、この太陽神をシャマシュと呼ぼう。これまでの検討から、シャマシュは、同一性構造であることがわかるのである。あるいは、連続・同一性構造である。ユダヤキリスト教ヘーゲルの理性、近代主義等々と共通するのである。(ここで、D.H.ロレンスが、『死んだ男』で、イエスを復活させるが、オシリスとして復活させることに最高度に留意すべきである。これは、ここでの議論から見ると、実に的確なのである。なぜなら、イエス・キリストとは、同一性の神、父権的神であり、オシリスとして復活することは、差異の神になり、メディア界の神になるということを意味するのである。)
 エジプト神話では、オシリスは兄弟のセトに殺されるのであるが、セトは、おそらく、シャマシュ、父権的太陽神に通じるだろう。つまり、オシリスは、同一性の神に殺されるのである。そして、イシスが、イデア光がオシリスを復活させるのである。これが、差異共振シナジー(コスモス)の形成を意味すると考えられるのである。そう、だから、オシリスの復活とは、当然、イシスの復活でもある。セト・シャマシュ・太陽神に、イシス・オシリスが殺害された言えるのだから。
 以上のように見ると、キリスト教とは、正に、支配的なユダヤ教的父権宗教と被抑圧的なイシス・オシリス的母権宗教との混淆であることがわかるのである。ギリシア正教カトリック教会、プロテスタンティズムにおいて、強弱はあるにしろ、これらの混淆を見ることができるだろう。もっとも、プロテスタンティズムは、後者をできるだけ排除したとは言えるが。
 現代の脱構造のエポックにおいて、同一性構造は、すべて崩壊して行くのである。ユダヤ教的同一性構造は、瓦解するのである。つまり、一神教の解体である。
 以上のように議論してきて、イデア光の問題が浮かび上がってきたと言えよう。後で、検討したい。


p.s. ■イデア光のルネサンスでもあり、これは、人類進化である。途方もない時代に入ったのである。


西洋文明が、同一性構造を基盤にしていることがわかり、これが、今や、解体した時代に世界が入ったことが判明した。これは、精神的には、イデア光の世界時代である。プラトニック・シナジーの時代である。占星術的には、双魚宮から宝瓶宮への転移である。しかし、これは、進化であるから、退化する人類や社会もあるだろう。人類進化の分岐点なのだ。
 進化するものは、メタ・人類であり、退化するのは、サル・人類である。