地味な野の花教へ向けて:「汝自身を知れ」の「汝」は差異であり、自

地味な野の花教へ向けて:「汝自身を知れ」の「汝」は差異であり、自我内他者・地味な野の花である。


テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義


「汝自身を知れ」とは、人口に膾炙した、古代ギリシアアポロンの神託である。しかし、言葉は知っていても、方法がほとんどの人がわからないのではないだろうか。ソクラテスには、無知の知という産婆術があった。しかし、これは、能動的というよりは、ネガティブな発想であろう。
 ここで、私なりに、経験論且つプラトニック・シナジー理論的に述べたい。通常、自我は、差異を看過しやすい。即ち、知識は二種類あり、同一性知識と差異知識があるが、前者が言語化しやすいので、後者が無視される傾向があるのである。そして、近代的自我、近代合理主義は、前者を中心主義で、後者を否定・排除・隠蔽したのであるから、この格言は意味不明となったと言えよう。
 差異としての「汝」とは、実は、地味な存在である。いわば、影である。自我から見ると、暗くあいまいな存在なので、無視されやすいのである。思うに、デカルトは、この差異の存在に気付き、それを合理主義的に排除したのである。しかし、本当は、自我(同一性)と差異とが並存しているのが実際である。そして、コギト(我思う)とは、元々は、この自我と差異との並存事象を指すと考えられるのである。あるいは、自我と差異との並存事象という環境において、コギトが発したと言えるだろう。これは、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論ないしプラシナ理論)においては、メディア/現象境界、超越同一性構造境界領域における事象であると考えられる。簡単に言えば、構造主義的事象なのである。同一性構造において、コギトが発生しているのである。だから、差異と同一性(自我)との並存事象なのであり、この差異をデカルト的合理主義(近代合理主義)は、否定・排除した結果になるのである。つまり、コギトは、矛盾・分裂した「個」の事象であると言えるのである。構造主義事象を、デカルトは、コギトによって解決しようとしたのであり、一試論であったと考えられるのである。
 結局、「ポストモダン」環境において、構造主義事象に回帰することになったのである。差異と同一性(自我)が並存する環境にあるのである。しかし、「ポストモダン」は、簡約して言えば、差異と同一性との並存における相対性を指摘するに留まったと言えるだろう。だから、有り体に言えば、コギト時代とほとんど変わっていないのである。差異を差異自体として、認識する思考が結局、「ポストモダン」思想には欠落していたのである。理論的には、プラシナ理論が解決したと考えられるので、ここでは、述べないが、経験論的に述べたいのである。
 構造主義事象において、同一性(自我)と差異との並存する「個」の環境がある。近代主義、唯物的近代主義は、ヘーゲル哲学のように、差異を否定して同一性自我を形成するのである。(思うに、ヘーゲル哲学は、実に興味深い理論である。それは、近代合理主義の哲学である。デカルト哲学の同一性主義的進展と言ってもいいだろう。そう、構造主義の先駆である。そして、正に、唯物的近代合理主義と一致するのである。マルクスが、ヘーゲル弁証法を、『資本論』に取り入れたのは、この点から言うと、正鵠を射ていたと言わざるを得ないのである。唯物弁証法とは、実は、ヘーゲル弁証法の分身に過ぎないのであるから。
 ついでに言えば、カント哲学とは、差異と同一性の間にズレ、切断、不連続性を提起した点で、偉大であったのである。この点を、カント以降の思想や科学は、ほとんど無視している。カント的意義をもつ超越論を、その後、プラシナ理論(不連続的差異論を包摂した理論として)が創造されるまで、理論的に展開したのは、ただフッサールだけであったろう。ニーチェは、差異をいわば体現したのである。そう、ニーチェは、正に、ポスト同一性エポックの「救世主」に当たるだろう。ポスト・イエスとしてのニーチェである。)
 では、同一性の自我を形成する環境・基盤の差異を経験的に考えると、それは、いわば、影、比喩的に言えば、地味な野の花である。平凡と言ってもいいくらいである。「なんだそんなもの」、というものである。しかし、「なんだそんなもの」が、実は、「汝」であったのである。目立たないものでもある。シェイクスピアの『リア王』で言えば、控えめな末娘のコーディリアである。『ヴェニスの商人』の花嫁選びの試練では、鉛の小箱である。あるいは、民話で言えば、醜いアヒルの子である。人間は、愚かなので、つい、派手なもの、華美なものに、目が行きやすく、また評価しがちである。小泉首相は、この点で、たいへんな役者であったのである。(私は、常々、彼は、職業を間違えたと思っているのである。俳優がいちばん適していると思われるのである。)
 汝自身を知る為には、この「地味な野の花」に注視しないといけない。おそらく、同一性の自我にとり、恐怖であるはずである。なぜなら、今日、同一性の自我とは、的確に言って、悪魔であるから、汝自身が悪魔であることを知ることになるからである。つまり、汝自身を知ることは、同一性自我の死である。そして、差異としての「個」としては、生まれ変わることになるのである。復活である。ルネサンスである。ここには、智慧・叡知が問題となるのである。
 私自身について言えば、確かに、私の影は、悪魔であったのである。魔王が潜み、凶暴に叫んでいたのである。そう、ルサンチマンでもある。破壊王である。このようなグロテスクな事態となってしまったのは、やはり、近代主義にあるのである。というか。プロテスタンティズム/唯物近代主義にあったのである。換言すると、同一性中心主義にあったのである。これが、現代を狂気・野蛮な世界にしているのである。
 近代主義、同一性中心主義は、悪魔主義であり、悪魔資本主義を生んだ。そう、同一性資本主義である。(本来、イタリア・ルネサンスは、差異資本主義ないし精神資本主義であったのである。TOXANDORIA氏の説くフランドルの資本主義も、差異資本主義・精神資本主義であったと考えられるのである。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060913/p1
)しかし、今や、多極化時代となり、プラシナ理論が創造され、明らかに、ポスト同一性資本主義の時代に転移したと言えるのである。これは、ユダヤキリスト教的西洋文明資本主義の終焉であると言えよう。
 とまれ、結局、汝自身を知れとは、汝自身が悪魔であることを知れ、となる。そして、悪魔を天使に変容させよ、となる。この天使への生まれ変わりの方法、あるいは、聖霊を受け入れられるように、変容する方法が必要である。この変容方法は、既述済みである。ここで、もう少し丁寧に言うと、影は、ほとんど、悪魔であるが、地味な野の花もあるのである。この地味な野の花(=イデア光)を積極的に肯定する方法が必要である。それには、スピノザの能動的観念の方法が、もっとも優れていると思われるのである。地味な野の花に、精神の歓喜があるのである。優れた企業の創業者には、この地味な野の花の信仰者が多いはずである。地味な野の花宗教を提唱したい。


地味な野の花教、である。


レンゲソウ


私が、地味な野の花教の教祖である。
 


参考1:


《この「無知の知」という考えは、「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)という、もともとはギリシアの七賢人の言葉であったものが後にデルフォイ神殿に刻まれた格言とも密接に関係する内容です。「グノーティ・セアウトン」という言葉は、「度を越すなかれ」という意味で使われ、現在のギリシアでは、酒場の店の入り口付近に張ってあるそうです。正体を失うまで飲むなよ、ということですね。こういう意味で使われているこの「汝自身を知れ」という言葉は、ソクラテスの思想を理解する上で、非常に大切です。いわゆる自己知の問題だからです。》
http://matsuura05.exblog.jp/d2004-02-10


古代ギリシア哲学と現代倫理学のページ



参考2:


クリシュナムルティの言葉はどこまでも鋭く本質で結晶のようだ。


「君はその社会の一部であり、そして自分をそれに適合させようとしている。が、その社会は利欲心の所産であり、時折の愛のきらめきをともなう、羨望、恐怖、貪欲、所有の追求の結果なのだ。で、もし君が聡明で恐れず、無欲でいたければ、そのような社会に自分を適応させることができるだろうか? そう、君は新しい社会を作り上げなければならないのだ。」


「普遍」


http://ameblo.jp/nohohonkoubou/entry-10017260453.html#tbox
そういちの平庵


画像以下から。
http://apple3.cool.ne.jp/ashigara/hana/0304408.jpg