プラトニック・シナジー音楽としてのビートルズ音楽:プラトニック・

プラトニック・シナジー音楽としてのビートルズ音楽:プラトニック・シナジー文明の創造


テーマ:音楽/ポップス


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今、ある目的から、ビートルズを聴き返しているが、今更感じるのは、その多様性である。一つ一つの歌が、個性が強いのである。これは、特異性と言うべきである。また、各メンバーの特異性とそのシナジーに拠るし、また、特異性が賦活された時代環境にも拠ると言えよう。
 歌自体が、不連続的差異であり、また、メンバーの不連続的差異の(零度)シナジーでもある。整理して言うと、不連続的差異である各メンバーのシナジーとしてのビートルズというグループがある。そして、このプラトニック・シナジー様相から、不連続的差異である歌が創造される。しかし、この不連続的差異である歌とは、実は、シナジー様相におけるそれである。つまり、ビートルズ音楽とは、正に、プラトニック・シナジー音楽であるということである。


p.s. 私説では、イギリス文化とは、基層にケルト文化をもっている。これは、単に、ケルト民族的(アイルランドスコットランド、等々)というよりは、ブリテン文化全体の基層・古層・基盤としての意味においてである。

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 ケルズの書等における組み紐紋の流動的に絡まるケルト紋様は、有名であるが、これは、メディア平面ないしプラトニック・シナジー空間的であると考えられよう。私の仮説は、ケルト文化とは、プラトニック・シナジー文化であることである。(参考:
ケルズの書:
http://www.shajisitu.or.tv/c2l2.htm
http://www.boudicca.gr.jp/shop/celtic_design/celtic-design4.html
 この仮説から、ビートルズ音楽は、正に、イギリス文化の基層(「地霊」)であるケルト文化の20世紀的発出であると言えよう。つまり、プラトニック・シナジー文化の一つの様相であるケルト文化の20世紀的発現としてのビートルズ音楽ということになるのである。

 21世紀は、プラトニック・シナジー文明・文化が超創出されるだろう。


p.p.s. ケルズの書を見て、失われた文明という観念が浮かんできたのである(p.s.  D.H.ロレンスの、自然美が満ち溢れた処女作『白孔雀』の中で、花スノードロップに失われた叡知が示唆されていたことを想起する。因みに、D.H.ロレンスは、プラトニック・シナジー文化であるケルトブリテン文化の文学・哲学的な超噴火を意味すると考えられる。今日、ロレンスが忘却されていることは、大問題である。モダニズム志向が、抹殺したと言えよう。

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参考:スノードロップ
http://www6.ocn.ne.jp/~pruitt/snow/index.html )。プラトニック・シナジー文明ないし文化がかつてあったと思うのである。それが、現代の狂気的文明によって破壊されてしまったと思うのである。現代の狂気的文明とは、当然、ユダヤキリスト教的資本主義西洋文明である。プラトニック・シナジーの叡知が、やはり、これまで述べてきたことから理解されるように、ユダヤキリスト教によって、破壊され、排除されたのである。
 プラトン哲学・イデア論哲学とは、この、失われた叡知であるプラトニック・シナジー理論の積極的な発現である。(思うに、プラトン哲学が、野蛮・狂気のユダヤキリスト教西洋文明によって焚書されずに、遺産相続されたのは、奇蹟的である。この点に関しては、後で検討したい。)
 問題は、イデア叡知が、超越的・超次元的普遍知・叡知・智慧・般若であるならば、この喪失とは何を意味するのかである。普遍的叡知の喪失とは何なのだろうか。換言すると、ユダヤキリスト教とは何か。一神教とは、宗教とは、神話とは、何か、である。あるいは、神秘思想やオカルティズムとは何か、である。あるいは、東洋思想とは何か、である、等々。
 思うに、かつて、イデア叡知体を見ること(ヴィジョン:ギリシア語、ラテン語のvideo見ること、ideo観念には、この名残があるだろう)ができたのではないだろうか。オカルティズムで、「霊視」や「透視」が言われるが、それは、イデア光の視覚ではないだろうか。つまり、イデア光視である。これが、なんらかの理由・原因で、かき曇って、不可視になったのだろう。現象知覚が中心となり、イデア知覚が失われたのだろう。【ここから見ると、プラトン哲学は、喪失されつつあったイデア叡知知覚を、遺産相続すべく、言語化したものだろう。(p.s. 『ティマイオス』の中で、エジプトの神官の話がある。エジプトに比較したら、ギリシアは子供であるというような、有名な話である。思うに、プラトンは、イデア叡知を、エジプトから得たのではないだろうか。また、有名なアトランティス文明の話が出てくるが、思うに、過去のイデア叡知文明とは、アトランティス文明がその一つであったのかもしれない。)。また、この点から見ると、「イエス・キリスト」も、このイデア叡知を、なんらかの形で、現象界に伝えようとした試みと言えるように考えられる。私は、グノーシス主義のイエスが本来の形であろうと述べているが、グノーシス主義とは、イデア叡知の一つの様態であると考えられるので、やはり、「イエス」は、イデア叡知の伝達者であると考えられるのである。それが、ユダヤキリスト教という信仰に、歪曲されてしまったと考えられるのである。】
 イデア叡知の喪失、現象化とは、連続・同一性化である。「物質」化である。これは、メディア平面の同一性面の事象と考えられるだろう。つまり、メディア界を同一性面の視点から見ると、連続・同一性=現象化が出現して、メディア界の本体である「イデア」、プラトニック・シナジーが不可視になると言えるだろう。そうならば、ユダヤ教化とは、父権的一神教化とは、メディア界の極性が同一性極・陽極に傾いた事象と言えるだろう。あるいは、視点の同一性への傾斜と言えよう。そして、この究極的帰結が、ユダヤキリスト教的資本主義西洋文明であり、今日、衰退・衰滅・衰亡しつつあるのである。
 結局、ユダヤキリスト教的西洋文明とは、古代ギリシアやイタリア・ルネサンス等を内包していることを考えると、メディア平面の同一性視点の文明であり、差異、即ち、メディア界・差異共振シナジーを基盤として、内包した、その連続・同一性視点の文明であると言えるだろう。簡単に言えば、差異の同一性視点である。換言すると、差異を同一性視点から観察しているのである。差異は、カント哲学で言えば、物自体である。同一性が、超越論的形式である。そう、近代的自我、近代合理主義、近代主義とは、同一性の帰結である。同一性中心主義ないし同一性絶対主義である。これは、唯物科学・技術となり、また、グローバル資本主義となったと言えよう。ついでに言えば、いわゆる、自己愛性人格障害、私の言葉では、近代的自我同一性狂気症が、この帰結の病理であると考えられる。同一性自我の極点である。
 さて、次に問題にしたいのは(別稿の予定であったが、ここで述べた方がいいだろう)、プラトニック・シナジー理論(プラシナ理論)の創造、イデア叡知の復活・ルネサンスの意味である。これをどう見るのかである。これまで、メディア面の極性力学を説いてきた。つまり、差異面・陰極と同一性面・陽極の極性力学である。これまでの考え方から見ると、父権一神教以前は、差異面・陰極の文明・文化であったことになり、ポスト同一性文明とは、これに回帰するように見えることになるのである。
 しかしながら、先に指摘したように、イシス/オシリス神話からヤハウェキリスト教が投影されたように見えるのであるから、前者への回帰とは、結局、前進にならないだろう。
 ここで指摘すべき点は、極性力学自体は、間違っていないのであり、左右的交互的変化の考え方が間違いであるということである。つまり、ポスト同一性文明とは、確かに、差異面への回帰であるが、これは、正しくは、螺旋的回帰と見るべきであるということである。1/4回転による垂直方向への捩れというイデア界の力学を考えると、螺旋的回帰運動は、当然である。つまり、ポスト同一性文明とは、差異面への螺旋的回帰を意味するということである。こう考えると、先の疑問も解決すると言えよう。即ち、ポスト・ヤハウェキリスト教文明とは、一見、イシス/オシリス神話への回帰に見えるが、そうではなくて、新たな差異面の文明の創造ということになるのである。私がイデア光と呼ぶ零度差異共振シナジーの発する「光」も、この新たな差異面の文明に関係すると言えよう。
 結局、永遠普遍的なイデア叡知のイデア光を知覚することになると考えられる新たな文明とは、何を意味するのか。思うに、これまで、地球上に、様々な文明が生成消滅してきたのであり、新たな文明とは、始点においては、この永遠普遍のイデア叡知光を見ていたと思うのである。それが、文明の展開によって、かき曇らせられ、不可視になり、当文明が、堕落腐敗して、終末をむかえ、終焉すると思うのである。だから、ユダヤキリスト教的西洋文明も始発点においては、イデア叡知光を見ていたはずである。しかし、同一性の展開によって、それが、濁り、不可視になってしまったと言えるだろう。現象光だけになってしまったのである。そう、ヤハウェとは、本来、イデア叡知光の一様態(同一性の一様態:「我在り」・スム)であったろう。そう、イデア叡知光の一様態の展開から、キリスト教的西洋文明が発現して、近代的文明が帰結したのであり、これが、USAグローバリズムと最終帰結したと言えるだろう。おそらく、この同一性化とは、つまり、螺旋的極性力学、的確に言えば、対極性力学は永遠に反復されるのかもしれない。そうだ、正に、ニーチェ永遠回帰永劫回帰である。
 しかし、そうなのだろうか。ポスト・永遠回帰ではないだろうか。イデア叡知光を可視する新たな文明とは、同一性の悲劇を体現した文明であり、もはや、同一性へ回帰しないはずである。それとも、愚行を繰り返すというのだろうか。理論的に考えよう。螺旋的回帰運動を考えると、確かに、永遠回帰となり、愚行は繰り返されるだろう。本当にそうなのだろうか。
 新たな文明においても、同一性化が発生するのだろうか。確かに、メディア平面における同一性面があるから、その極性はあるのである。だから、同一性化は生起するだろう。しかし、今や、デジタル情報化の時代である。これは、知識がかつてのようには消失しない。焚書できないということである。情報・知識の公開が前提なのである。これが、これまでの情報・知識が権力的少数者に支配された時代と決定的に異なる点である。このように考えると、もはや、同一性の全体化は生じないと思うのである。情報・知識、即ち、イデア叡知の独占・寡占の時代は、永遠に過ぎ去ったのである。つまり、極性力学はあっても、もはや、それは、ほとんど意味をなさなくなったと言えるだろう。
 ということで、新たなイデア叡知の文明は、決定的に、過去の文明とは異なることになるのである。そう、ポスト人類の地球エポックと言っていいだろう。同一性的自然からの解放と言えるだろう。そうならば、これは、逆に、永遠回帰と言えるだろう。
 最後に、イデア叡知光の可視化を意味を考えてみよう。これは、永遠普遍のイデア叡知光の可視ということであり、いわば、精神感覚として、第6感覚となるだろう。これに基づく新文明が創造されるということである。これは、イデア叡知光ないしイデア叡知に基づく新文明の創出ということでもある。プラトン哲人政治が実現することになるのである。そう、ポスト同一性国家としての新国家である。これは、プラトニック・シナジー国家・連邦となるだろう。いわば、世界連邦ないし地球連邦となるだろう。
 では、理論的に考えると、このイデア叡知光の文明とイシス・オシリス神話との関係はどうなのだろうか。イシス・オシリス神話とは何か、である。また、神話とは何か、である。簡単に言えば、神話とは、イデア叡知の文学化である。そして、民話は、その地方・地域的変異であろう。そうならば、イシス・オシリス神話は、イデア叡知の神話・文学であると言えるだろう。プラトニック・シナジー理論の神話である。(この点は、アメリカの神話学者ジョゼフ・キャンベルの主著を読めば理解されるだろう。『神の仮面』)
 では、宗教は何であるのか。これも、当然、イデア叡知ないしイデア叡知光を志向する何らかの表現である。ただし、信仰や情緒の作用が主導的になるので、盲目になる危険が常にあると言えよう。推察するに、イデア叡知光を見た人、たとえば、仏陀やモーゼやイエスマホメットムハンマド)が、その神々しい姿にひれ伏して(cf. イスラーム)、信仰が生起したのではないだろうか。だから、宗教は美的なのである。芸術よりも、美的な反応であろう。
 そう、では、叡知学とは何か。それは、不合理な形式で、神秘学、オカルティズム、秘教・密教に伝えられたと言えよう。しかし、プラトン哲学においては、純正な形を保持していると言えよう。そう、仏教哲学にも、叡知学が保持されてきたと言えるだろう。そして、鈴木大拙即非の論理学として、結晶したと言えるだろう。そして、神秘学的には、ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」に発現したと言える。
 また、哲学philo-sophia(愛好・叡知)であるが、これも、その名前から、叡知学の一部であったと言えよう。しかし、西洋哲学は、同一性への傾斜を強くもっていたのである。叡知のロゴス(論理・合理)が、言語に帰結したと言えよう(近代主義)。
 最後についでに、今日、流行している文学形態のファンタジーであるが、この源流であるトールキンの指摘から、ファンタジーとは、正に、ヴィジョンであり、イデア光ないしイデア叡知光に通じるものであると考えられるのである。つまり、ファンタジー=ヴィジョン=イデア叡知光文学である。