検討課題:貨幣と差異

検討課題:貨幣と差異


テーマ:差異通貨・貨幣論


Kaisetsu氏が説くように、貨幣の起源を、王権的なもの、つまり、王権の観念・概念像として、考察を始めよう。思うに、ここには、普遍性、一般性、特異性が現れている。普遍性は、王権的観念・概念である。それは、ある意味で、イデア的と言えるのである。換言すると、メディア・シナジー・エネルギーをもつものである。
 一般性は、これと関係するが、数的価値である。そして、特異性は、その貨幣自体の希少価値性である。貴金属性である。普遍性と特異性は差異と、一般性は同一性と関係するだろう。しかし、ここでは、正確に検討しないといけない。
 王権的普遍性とは、差異且つ同一性である。ここには、矛盾両立があるのである。貨幣自体の特異性は、この王権的差異と関係するだろう。つまり、金貨や銀貨は、王権的差異と一如である。そして、貨幣の数的価値=一般性は、当然、同一性であり、これも王権的普遍性と関係する。図式化しよう。
     
      差異・特異性・・・貨幣自体
      ↗
王権的普遍性→メディア・エネルゲイア
      ↘
      一般性・同一性・・・貨幣の数的価値

 では、王権的普遍性とは、プラトニック・シナジー理論から見ると何だろうか。これは、先にも述べたが、父権的一神教エネルゲイアと等価であろう。ヤハウェに等価である。ここで、想起するのは、イエスが、「カエサルのものは、カエサルへ」と言ったことであるが、しかし、貨幣は、神的なのであるから、単にカエサルのものではないのであるから、イエスの言葉は誤謬である。さらに、想起するのは、貨幣とキリストが等価であると、以前述べたことである。ロゴスの受肉としてのイエス・キリストを考えると、貨幣としてのキリストということがよくわかるだろう。ロゴスが神的普遍性であり、それが、物質化されたものが、キリストになるのだから。
 ここで、解答すると、貨幣=王権的普遍性とは、メディア・シナジーエネルゲイアの同一性構造である、ということである。不連続的差異論的に言えば、メディア界のエネルゲイアをもつメディア/現象境界同一性構造性である。しかも、貴金属として、特異性化されているので、個体的なものである。だから、やや極論的になるが、メディア界=メディア平面そのもの、差異共振シナジー様相そのものと言えそうである。そう、正に、メディアである。貨幣は、理想的な媒体と言えるのである。
 問題は、連続・同一性構造である。メディア・エネルゲイアは、この場合は、王権・権力であるが、それが、貨幣の連続・同一性の数的構造を実効的に保障しているのである。(信用とは、王権・権力であろう。)そして、この連続・同一性構造への傾斜が、差異や特異性の否定・排除・隠蔽へとつながるのであり、金融・拝金資本主義においては、まさに、そうなっているのである。
 ここで、ルネサンス(イギリス・ルネサンスのエリザベス朝時代も含む)を想起するのである。それは、差異の発現・顕現の時代である。差異共振シナジーの発現・発動・作用の時代と考えられるのである。だから、貨幣・資本は、そのようなものとして、存したと考えられるのである。つまり、王権的普遍性をもつ貨幣・資本が、差異共振シナジー化したと考えられるのである。貨幣のメディア・エネルゲイアが、差異共振シナジーエネルゲイアになったということである。しかし、近代合理主義、唯物科学が発展すると、メディア・エネルゲイアが失せてくるのである。それは、連続・同一性中心主義に取って代わられるのである。これは、エンテレケイア化と言ってもいいかもしれない。貨幣が本来のメディアから、エンテレケイア・終極態=目的になったのである。これは、貨幣の堕落である。つまり、貨幣の連続・同一性化である。ここでは、メディア・エネルゲイアが排除されているのである。思うに、ここには、不兌換制度が原因としてあるように思えるのである。貨幣の特異性としての貴金属性を喪失したとき、それは、同一性の傾斜へと流動すると考えられるからである。(ここで、直観を言うと、貨幣の貴金属性、兌換制とは、貨幣の身体性である。貨幣の「精神」・「魂」・「霊魂」とは、貨幣の心身であり、身体且つ思惟である。不兌換通貨制とは、いわば、身体のない思惟、つまり、幽霊状態である。身体(延長)と思惟(意識)がそろって、「精神」・「魂」・「霊魂」が顕現するのである。)
 後で、再検討したい。